子どもの頃通っていた理髪店のじいさんが引退するというので、最終日に散髪に行ってやった。親父といっしょに世話になったそこは、昔ながらの理髪店だ。赤白青のレトロなストライプの看板が今でも現役。くるくるとまわるそれは、ずいぶんと色あせてくたびれている。俺が通いだした頃には、もう砂ぼこりやらで薄汚れていたが。
「おう、来たぜ、じじい」
「相変わらず礼儀がなってない! 鈴木んとこのせがれか!」
「お客にその態度はねーだろう。じじいこそ礼儀がなってねぇ」
口が悪いのもお互い様だ。
「適当でええな」
「おう」
会話が少ないのにも慣れたものだ。
しゃくしゃくと、髭剃りの泡を立てる音がする。手慣れた様子で俺に泡を塗りたくり、蒸しタオルをかける流れるような動き。しゃくしゃくしゃく、じいさんが立てる音以外は何もない理容室。思えば客も、俺以外誰もいない。最終日なら、もう少しこれまでの客でにぎわったっていいのに。
「じじい」
蒸しタオルを取られた隙に、声を掛けてみる。
「客、来ねぇな」
「あー、みんな、死んじまったわ」
ぺとり、再び泡が塗りたくられ、俺は黙る。
そうか。今時理容室に来る客はそもそも少ない。しかも、じじいの常連はみんなおっさんとじじいだ。じじいはこのあたりの誰よりも長生きだ。たぶん、80歳はいってるんじゃないか。雇われてるわけじゃないから定年はないとはいえ、よくもまぁ、店を開け続けたもんだ。最後なんだし、仕事ぶりを見てやるか。
だが俺は、そう思ったことを後悔した。
年季は入っているが、よく手入れされたピカピカのカミソリ。俺が家で使うようなT字のやつじゃない、理容師用の立派なそれは、ぬらりと光っている。そしてそれを持つじじいの手は、ぷるぷると小刻みに震えていた。
そうだ、ドアを開けるときも蒸しタオルを掛けるときも、じじいの手は震えていた。カミソリを持つ手が震えないわけがない。俺は正直ブルッた。あの切れ味のいいカミソリが、これから喉元を滑るのだ。なるほどこれは客も来ないわけだ。あわてた俺は、じじいを制止しようとした。
「ええい、動くないっ。手元が狂うわ!」
がしりと、老人とは思えぬ力で頭を押さえつけられる。刃が頬にあたる。俺はその時、死を覚悟した――
じじいはさすがプロだった。カミソリを肌に当てた途端、震えはぴたりと止まったのだ。俺はじじいの仕事にあらためて敬意を感じた。最後の最後まで、じじいは理容師だった。
「ありやとっしたっ」
ぞんざいでヘンテコな音に聞こえる礼の一声も、今日ばかりはわずかに震えていた。
振り返らずに手を振ってやる。じじいも、俺に弱みは見せたくないだろう。
俺の肩も震えていた。じじいにばれてないといいんだが。
[お題] 散髪、震え、最終日(ランダム三単語で一文)