恋の劇薬

manatsu
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 ここは、魔女の森と呼ばれる不思議な場所だ。

 魔女といっても悪い魔女ではなく、村人の願いを聞き入れ、薬草を使った薬などを処方する便利屋の魔女が住んでいる。便利屋の魔女は気分屋で、気が向いた時にしか村人の相手をしない。森に入ったからといって、彼女の家にたどり着けるとは限らない。

 魔女曰く、「アタシのきまぐれのせいじゃないさ。本当にアタシを必要としてるかどうか、森が見分けてくれるんだ」ということだ。

 メリーは森の前でじっと考えていた。森は、自分が魔女のもとを訪ねるのを許してくれるだろうか。それとも、そんな些細な悩みなど聞く必要はないと、道を隠してしまうだろうか。

 目の前の森は、昼の光を浴びて美しい新緑が輝き、時折鳥たちの囀りが聞こえてくる。花やきのこや、様々な実のなる木々たちが共存する、優しい空間に見えた。村人でなければ、誰も魔女の棲家だとは思わないだろう。

 ただ、望みが叶わないものにとっては、このメルヘンのような世界も、ただあてもなく彷徨う途方もない迷路に変わる。あきらめれば森を出られる。諦めない者は、ただひたすらに、くたびれるまで翻弄される。

 メリーは決意した。魔女のもとにたどり着けないのであれば、自分の悩みは大したことがないというだけ。試すだけ試してみよう。自分の想いが、大したものではないと断じられるのは怖いけれど。

 彼女は一度深呼吸をすると踏み出した。  森は優しく彼女を迎え入れたように感じた。何か特別な現象が起こったわけではないが、なぜだかそのように感じられたのだ。果たしてその感覚は間違っていなかったかのように、森の一本道を進んでいけば、程なくして一軒の小さな家が見えてきた。

 家の屋根は苔むしているが、レンガはきなりと茶色の組み合わせで、どこか可愛らしい雰囲気のある佇まい。煙突からは煙が出ており、暖炉の火が使われていることを示していた。つまりは魔女が在宅ということだ。

 彼女は自分の幸運に感謝しながらも、これから対面する魔女について考えると、再び森に入る際と同様の緊張を感じた。魔女は気分屋なのだ。せっかくたどり着いたのに機嫌を損ねるわけにはいかない。

「ごめんください」

 メリーは家の扉を叩いて声を掛けた。少しばかり震えて弱々しくはなってしまったが、その音は静かな森に響き渡った。

「お入り」

 中から静かに声がした。メリーはゆっくりと扉を開けると、恐る恐る魔女の棲家へと足を踏み入れる。目に飛び込んできたのは真っ赤な暖炉。そこに焚べられた鍋はなにやらぐつぐつと煮たっている。誰もがイメージする魔女の釜そのものだった。しかし、その傍らに立つ女性は、ごく平凡な、40代ほどの髪の長い女性だった。鼻が特別大きいわけでもなく、目もぎょろりとはしていない、ただの中年女性だ。だが、窓辺のかごには魔女のしもべの黒猫が体を丸めて眠っており、昼寝の邪魔をしたメリーに迷惑そうに目をやったあと、すぐにまた眠りについたようだった。この黒猫は人間の言葉を話したりするんだろうか。

「さて。何がご入用で?」  

 魔女はあまり気長ではないらしい。お天気の話や最近の村での出来事など、雑談はこのまないようだ。メリーは魔女のそっけない態度に怯えながら、必死で言葉を紡いだ。

「薬が欲しいんです。恋に効く秘薬が」

「ふうん」

 魔女はつまらなそうに相槌を打った。

「恋をしてしまったんです。奥さんのいる男性に。彼は私が働くパン屋のご主人で、それはもう、優しくって気前がよくって、顔はそこまで男前じゃないけれど、腕の筋肉はたくましい、すごく素敵な人なんです。奥さんと仲が悪いわけじゃないけれど、特別仲良くも見えなくて、二人とも黙々と仕事をしていて。私……私だったら、彼をもっと大事にできるのにって思ってしまうの」  

魔女の様子に、彼女の言葉にも熱が入る。なんとしても、自分の境遇を理解して欲しい。この苦しみを分かって欲しいと切実に訴えた。

「だけど、いけないことだって、分かっているんです。彼には奥さんがいて、私にも夫がいます。だから、この気持ちを諦めなくてはいけない。でも、苦しくって。死ぬほどに苦しくって、どうしたらいいかわからないんです」

「はぁ。それで?」

 魔女は呆れたように彼女を見遣った。森が通してくれたというのに、魔女の対応はそっけない。

「それで、薬が欲しいんです。恋に効く魔法の薬が。この苦しみを消し去ってくれる秘薬があるんじゃないかって」

「恋なんてのはさ、思い込みだよ。思い込みを辞めれば終わるんだ。だから自分で終わらせるこった。なんならパン屋を辞めてその主人と距離を置いたらいい」

「そんな! そんなこと、できっこないんです。村には仕事が少なくて、あそこくらいしか私が働ける場所がないんです。亭主の稼ぎだけでは暮らしていけないのに、仕事を失うわけにはいきません」

 せっかく森に通してもらえたのに、ここで話を終わらせてしまっては意味がない。途方に暮れた様子で訴えると、魔女もようやくやる気になったようだった。

「なるほどねぇ。それで、迷子のメリーさんは、迷いの森では迷わなかったわけだ」

「私、迷子じゃありません。ここにだって、ちゃんとたどり着けたわ」

「恋に前後不覚になってるんだから、迷子に違いないさ。それならほら、これをあげよう」

 魔女は、小さな小瓶を手に取って見せた。琥珀色のとろっとした液体が入っている。液体は、暖炉の火を反射するようにキラキラとして見えた。魔女が小瓶をゆすると、ゆっくりねっとりと中身が動く。絡みつくようにうごめく液体は、いつかあふれてしまう自分の恋慕の情のよう。

「これがあんたの望む秘薬だよ。恋を忘れるための劇薬さ」

「劇薬、ですって?」

 メリーは怯えた。そんな怖いものは望んでいない。欲しいのは秘薬であって、劇薬ではない。

「だって、死ぬほど苦しいんだろう? そんな恋に効くのはこの薬。紅茶に垂らして飲むだけでいい。ただし、薬だから、注意事項があるよ。よーく聞いて、しっかりと手順通りに飲むんだ」

 ゴクリ。と、メリーの喉が鳴った。魔法の薬の飲み方をしっかり覚えて帰るのだ。彼女は息をするのも忘れて、魔女に見入った。

「まずね。薬を飲む前によーく考える。道ならぬ恋の最悪の結果をね。あらゆる最悪を想像するんだ。そうして、失いたくないものについて考える。今の平穏な暮らし、仕事、村で後ろ指を刺されずにいられること。全部だよ。そうして、彼のことは好きじゃないって唱えながら、これを垂らした紅茶を飲み干す」

「それだけで、いいの」

「それだけでいい。ただし、きちんと思いを消化できていなくて、まだ相手の男に未練があれば、お前は死ぬ」

「死ぬですって!」

 青ざめるメリーを気にもとめず、魔女は続けた。なんて冷淡なんだろう、メリーはますます劇薬に恐怖を感じた。

「しっかり気持ちが消えていれば、死なない。薬の後遺症で、相手の男を見るとしばらく胸が痛むかもしれないが、1週間もすれば落ち着くさ。それで、あんたはいつも通りの生活に戻れる」

「だけど、死ぬかもしれないなんて……」

「道ならぬ恋で身を滅ぼすことと死ぬことなんて、そう変わらないさ。誤差みたいなもんだ」

 魔女にとっては他人事。メリーは自分の境遇に同情してくれない彼女を、無意識に睨みつけた。

「それが嫌なら、秘薬になんぞに頼らず、自力でなんとかするんだね。ほら、これはくれてやるよ。飲むか捨てるかはあんたの自由だ。ワタシは忙しいんでね、用が済んだら帰った帰った」

 魔女はメリーを追い立てて扉の外に出すと、もう話すことはないとばかりに扉の錠をおろした。

 メリーを追い出した魔女の家では、魔女が釜の中のスープをかき混ぜながら歌い出す。それは古くから歌われる恋の歌の始まり。

「ワタシを見て、恋に悩んで、道に迷った可哀想な子猫みたいに震えてる」

「……意地が悪いなぁ」

 かごで眠っていた黒猫がふいに口を開いた。

「ただのハチミツを渡して、飲んだら死ぬだなんて」

 あーあ、と黒猫は大きな欠伸をする。言葉ほどにメリーには同情していないようだ。

「だって、恋に効く秘薬なんてあるわけないじゃない」

 先ほどまで魔女らしい話し方をしていた女は、演技は済んだとばかりに息を吐いてみせた。魔女の様子が変わっても、猫はいつものことだとやり過ごし、ニヤリと笑った。

「彼女、薬を飲むかな」

「さぁね。飲んでも飲まなくても結果は同じ。ハチミツを飲んだって死にやしない。でも彼女は、死ぬくらいならって、不倫をあきらめるでしょうよ。恋なんて、ただの思い込み。気持ちなんて、ちょっとしたきっかけで変わるものよ」

 女は煙を払うように手を振ると、スープの味見をした。

「うん。今日の夕飯もいい出来!」

[お題]秘薬、気まぐれ、迷子のメリーさん(ランダム三単語で一文)

@manatsu
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