本を持つ僕の手に脂汗がにじむ。
こんなの、予想してなかった。確かに、顔は知らない相手だった。サイン会のはずが握手会なのも不思議だなとは思っていた。だからって、こんなことってあるだろうか。
男らしい名前、ハードボイルドでカッコいい文体。彼の小説に憧れて小説家を目指すことになったといっても過言ではないほどの、大好きな小説家の先生。そんな憧れの人が、地元の書店に来てくれる。一も二もなく整理券を申し込んだ。人数制限ありの争奪戦だったが、無事に券をゲットした僕は、それはもう、嬉しくて昨日は眠れずにいたくらいだ。
きっと先生は、小説の主人公みたいな渋い中年男性だろうな……なんて想像しながら、何を話そうか何度もシミュレーションした。それなのに。
「はい、次の方」
スタッフが機械的に並んだ人々をさばいていく。ひとり、またひとりと前に並んだ人たちが減っていく中、徐々に先生の姿が見える位置にまで近づいていく。僕の心臓は高鳴る。メディアには姿を見せない先生。ファンたちが、なぜか口を噤んでその容姿にふれないミステリアスな存在。
「はい、次の方」
先生に近づくにつれて、なんだかいい匂いがしてきた。衝立に仕切られて、まだ顔は見えない。もう少しで声も聞こえてきそうな距離だ。先生の声はどんなだろう。
「はい、次の方」
目の前の男性が呼ばれる。僕の前後を含め、どこを見ても男の人ばかり。そりゃあ、先生の作風から男性ファンが多いとは思っていたけれど。それにしても、なんていうか、ハードボイルド小説のファンなのに、オタクっぽい男の人ばかりだなぁ。
ぱっと、衝立の中が見える。僕は頭が真っ白になった。
「いつも読んでくれてありがとぉ」
「えへっ、へへ」
何も言えないまま握手をし、はがされていく目の前の男性。
「はい、次の方」
まだ心の準備もできぬまま、無情にも僕に声がかかる。
「こんにちは」
「は……」
僕は固まったまま先生に本を引き取られ、すらすらと書かれるサインに目をやる。やっぱり、ネットなんかで調べて何度も見た、無骨でカッコいい、だけどちょっと汚い殴り書きの文字。
「いつも読んでくれてありがとぉ」
目の前には、髪をツインテールにした、色白で瞳の大きな女性が立っていた。ふんわりと香水のいい匂い。ぷっくりとした唇は、フルーツみたいに瑞々しい。僕の住む田舎町にはいないタイプ。ふわふわの洋服を着た、妖精みたいな女の子。彼女は本音とも営業スマイルともわからない笑顔で、にっこりと僕を見ている。
やんわりと、しなやかで白い手が僕の右手を包む。
じんわりと、また脂汗がにじんだ気がした。
――こんなのって、ない。
僕は失恋をしたような悲しい気持ちで、とぼとぼと田舎道を歩いた。
――こんなの、あんまりだ。
僕が長年、男の中の男として手本にしてきた先生が、……美少女だったなんて。
[お題]脂汗、握手会、本(ランダム三単語で一文)