これはいとこんさん発『私の一冊アドベントカレンダー2024』の12月15日分として参加させていただいた際の記事です。人様に読んでいただく文を書くのが記憶にないくらい久しぶりで、またなにかのイベントに参加する機会もめっきり減っていたのでとてもよいクリスマスになりました。
さてテーマは「自分の大切な一冊」なのだけれど、これがなかなか難しかった。子どもの頃に読んでそれがとても大事な経験となった本もあるし、人生でなんども読み返す本もある。だけど色々考えても決めきれないので、私は「今年の私にとって大切な一冊」ということで真っ先に脳裏に浮かんだ本について、その直感に従って書くことにした。
榎本空『それで君の声はどこにあるんだ?黒人神学から学んだこと』は、ジャンルとしてはおそらくエッセイである。味わいがどことなく梨木香歩の小説『村田エフェンディ滞土録』に似ていて、内容は主に著者が滞在したマンハッタンにあるユニオン神学校での体験を書いたもの、話の多くはタイトルのとおり黒人神学に体験として触れた著者の視点およびジェイムズ・H・コーンについて、時はBlack Lives Matter運動が始まって数年後からパンデミック後までのことだ。本書には体感としての2015年以降のアメリカ、キリスト者、黒人神学およびそれと傘をともにする白人中心主義的な神学への問いなどが註釈とともに述べられているので、それらに興味を持った読者が追加の読書をするにもよいと思う。
などと偉そうにいいながら、私はアメリカ史にも黒人神学にも暗い。もともと本書を手に取ったのはタイトルに「それなんだよな」と思ったからで、それ以上でも以下でもない。とはいえ私は過去に大学で神学を学んだことがあり、語られる言葉に多少馴染みがある。しかし大多数の学部生の傾向にならい学問の表面をちらりと舐めた程度でなにもわからぬまま卒業したため、自分の無知を知っているだけ多少謙虚という程度だ。私は神も仏も信じておらず、人間の集団や熱狂を基本的にキモいと思っているが個人の意思と祈りを信じているタイプの臍の曲がった楽天主義者で、キリスト者ではない。
それはさておき。本書は体験についての語りだから起承転結もわかりやすい一貫した主題もない。しかし繰り返し出てくるのは、自分が当事者でないことへの当惑と迷いだ。著者は世界中を転々とし、アメリカで、沖縄で、台湾で、学問を修めるものとしてまたキリスト者的善い人間の行いとして現地に立っても、自分は良くて部外者、多くは歴史的に加害者の側であることに気づく。自分が持っている特権、つまり国境を超えて移動ができる自由があり、家族に守られ、命の危険がなく、高い教育を受けている男性という立場。一方で自由であるためにある種居場所がないということでもある、その脆さを目の前にして、不正義に相対する場所に立ったとき、信仰とはなにかについて考える。
私にはこの当惑と迷い、著者のある種のナイーブさが、まるで自分のことのように感じられた。独身中年無職クイアとして居場所のなさ、立場の不安定さという点ではなお悪いくらいだ。しかしそれでもなお世の中のままならなさを目にし、なにかをしたいと思ったとき、安全地帯にいる自分に動揺することがある。東京に生まれ育ち、今日の衣食住が足りて命の危険や生活の不自由がなく、学問をする自由がある自分に。
私の体感として、2020年以降の世界はぎりぎり持ち堪えていたものが全て一気に決壊してどこも修復の余力がない状態になっており、それによって悪意の歯止めが効かない場面が増えたように思う。個人の悪意だけではなく、もっと構造的な問題で。もしくは私の側が変化して、それらを感知できるようになっただけの可能性も高いが、ともかく現状が様々なひとにとって厳しいものであることは間違いない。そして、自分のそれらに対する反応はどうだろうか?と考えることも増えた。
世の中のままならなさを前になにかをしたい、しなくてはいけないという焦りのような気持ちは嘘ではないのに、それが「本当の(genuineな)」感情なのか、自分を信用できない気持ちが同時にある。年代的に思春期を冷笑の文化の中で過ごした弊害かもしれない。アライシップは必要で、無関心よりも偽善がマシの状況だけれど、それでも多くの場合自分が部外者か加害者の側である状況に惑って途方に暮れる。当事者たちには途方に暮れる余裕もないときに。
人に手を差し伸べる時は、自分の足元がしっかりしていなければ共倒れになってしまう。セルフケアが社会福祉の現場において重要視される理由だ。だから自分の足元が安全であることに、過剰な罪悪感や当惑を抱く必要は本来ない。でももしそれらを感じるなら、一部はおそらく自分が他人の声を借りて(もっと言うなら奪って)物事について話しているという疑念によるのではないか。
自分の声というのは誰しも持っている。そして他の人間がそれを奪うようなことがあってはいけない。それが非当事者の、アライシップの原則である。そのためにはまず自分の声を見つける必要があり、また自分の声を見つけるということは、自分を観察しなおすことに他ならない。これが人間は(少なくともわたしの観測範囲では)結構苦手であると思うし、訓練が必要で、継続したセルフリフレクションを要する難しい行動であると思う。別の本になるが、Bob Pease著『UNDOING PRIVILEGE』に社会福祉においては自分の特権を自覚し、それらを一部諦めることの必要性が書かれている。自分はそれがどの程度できているだろう?全然できていないような気がする。
本書内で、著者はタイトルに対する答えを、問うこと、過去と繋がること、書くこと、としたように読み取れた。また著者はマルコによる福音書の15章42節からを引きアリマタヤのヨセフにも答えを見る。特権のある側の人間で、イエスとともに歩かなかったが、彼を十字架から降ろし埋葬した人間。イエスとともに迫害を受けた人間でもなく、弟子として以降教えを説いた人間でもないが、その間を繋いで本来野晒しにされるはずだった遺体を勇気と特権を用いて十字架から降ろし埋葬した人間。キリストの復活が重要である以上、この埋葬という点が必要だった。おそらく著者がこの人物にある種の救いを見出したのと同じく、私もこれによって、うまくいえないが「それでいいのだ」と思えるようになった。全然重要じゃない人間にも「役割」があるという安心感かもしれない。自分の声でもってやれることをやろう。自分の声がどこにあるかわからなくなったら立ち止まってもいい。よいものを信じて、迷っても、これらを続けて人々とともに歩くかぎり大丈夫なのだという祈りのメッセージがここにはある。
私は今年正社員の仕事を辞め中年ながら大学院に行き始めた。それは現実的なことはさておき、学問が、息が詰まりそうだった自分や同じようにままならなさを経験している他人をすこしでも救うかもしれないという希望があってのことだけれど、その学問においてこの一年は「じぶんの声はどこにあるのか」と問われ続ける年だったと思う。その点で、この本が私にとっての今年の一冊となった。
余談。私の1冊に『僕のヒーローアカデミア』を選んでまっっっったく同じ主旨の話を書こうかとも思ったんですが、そっちは書くことを絞りきれない気がしたので大人しく本書を選びました。