外はすごい雨だった。樒さんとお母さんが家に遊びに来た時はまだ降ってなかったのにどんどん雨が強くなっていって、台風くらい風も吹き始めて来てがたがた窓を揺らしている。しばらくは帰れないね、とそんな話をしながら、僕と樒さんは部屋で勉強を。母さんたちは母さんたちでお喋りをしているみたいだった。算数の宿題は簡単だったからすぐ終わって、樒さんの方を見ると鉛筆を持つ腕に大きなあざができていた。
「腕のあざ、どうしたの?」
「…おうちでころんだの」
僕が聞いたら顔を向けてそう答えた。この間は足にあざがあった。樒さんはすこしぼんやりしたところがあるからよく転んでしまうらしい。転ばないよう気を付けたらいいのにいつもどこかしらに怪我をしていて、自分のことをあんまり考えない不思議な子だなと思う。僕のことはよく見ているのに。
「僕が将来お医者さんになったら、樒さんが転んだときすぐ治しにいくよ。約束」
「…うん、ありがとう。やくそく…」
理解するのに時間が掛かったみたいに少し間のあと、小さく笑った。今日の樒さんは何だか元気がない。宿題に向き合ってても手は動いてなくてぼーっとしている時間が長かったしいつもよりさらに口数が少ないような気がした。そこで、そうだ、と思い付いて、ちょっと待っててと伝えてリビングへ向かった。最近父さんがお仕事でもらってきた美味しいクッキーを何枚か持ってきてあげようと思った。
「……⸺わからないんです、あの子が。」
階段を降りていくと樒さんのお母さんの声がして、その深刻そうな声に足を止めた。
「喋りだすのも遅かったし、最低限の受け答えしかしないんです…。なんにも興味がないみたいな顔をしていつも宙を見ていて。まだ幼い子供なのに、ですよ?普通はもっとはしゃいだりしますよね…。この間、どこに行ったのかと思ったら庭でひとり遊びをしてたんです。蹲って何をしてるのかと思ったら、ダンゴムシやら、ミミズやら、バッタやら…。とにかく色んな虫の死骸が山になってたんです。あの子が何を考えているかわからなくて…私たちは、あの子のことが怖いんです。自分のお腹から出てきた子のはずなのに、私は…」
うん、うんと僕の母さんは相槌を打ったあとこう続けた。
「もしかしたら、虫が好きなんじゃないでしょうか?まだ力加減のわからない子どもなら、強く握ってしまうこともあると思います。ほら、アリの巣穴に水を入れたり、棒を突っ込んでみたりして…子どもの頃って、好奇心があって思慮分別がないから、ときに残酷なことをしますよね。大人しいのは、山茶花ちゃんも早熟なだけかもしれません。うちも、やんちゃ盛りの男の子にしてはもうとても落ち着いた、できた子ですから…母親の私が、こう頼りないからそうさせてしまってるのかもしれませんが、」
母さんがげほげほと咳き込み始めたから、急いで駆け寄る。いつもの薬をポケットから出してあげた。それを飲んで発作が収まったのを見届けてから、クッキーをいくつか手に取って樒さんのお母さんに頭を下げてからリビングを出た。
階段を登っていると僕の部屋からやけに雨風の音が強く聞こえてきた。何だろうと思って足早に部屋に戻ると。樒さんが窓に足をかけていた。一瞬理解が追い付かなかったけど、身を乗り出して今にも落ちそうだから慌ててその体を抱えて止めた。樒さんはバランスを崩して僕も倒れ込む。
「…いたた、何してるの…?びしょ濡れだよ、」
「…わからない。でも、そうしたくなって。ぜんぶさよならしたくなったの」
今にも消え入りそうな弱々しいその姿を見ながら、僕にもその考え方には覚えがあると思った。さして面白いことも、感動することもないようなこんな世界もう飽き飽きしてて、あと何十年も存在し続けると思うとぞっとして、全部全部無に帰したくなる。僕たちが同じことを思ってるんだと思うと、不思議と樒さんにはどこにも行かないでほしくなった。
「僕とはさよならしちゃだめだよ。約束したよね、僕が樒さんの怪我を治すって。だから、さよならするなら二人でしようよ」
顔を上げた樒さんは、意味がわかっているのかいないのか、また数秒置いたあと微笑んだ。もう、二人で世界とお分かれする方法の目処は付いている。樒さんには秘密を打ち明けよう、僕達だけのとっておきの秘密を。