ロジカル、ロジック、論理(的)という言葉が表現するものは多様だ。記号論理学で扱う命題・言明の操作も論理と表現するし、男社会の論理と言えばホモソーシャルで旧時代的な男ばかりのコミュニティの文化を指している。そして、それぞれ論理と言い表されるものたちは互いに噛み合わせが悪いことも多い。反対解釈は記号論理学的な真を意味しないし、男社会の論理は排除されたものたちからすれば非合理的・排他的という意味で論理的ではないと批判される。論理やロジカルという言葉をどのように使うのが適切かについての議論は差し控えるが、多くの人が多様な様態に対してこれらの言葉を使っている。
論理であるとかロジックであるとかそういった言葉が利用される空間にはディベートも含まれている。ジャッジは選手に論理的であることを求めるし、ジャッジの求めに応えて選手もそうあろうと思考する。だが、ディベートの空間においてロジカルであることが求められるとき、ホモソーシャルであれと要請されているわけではない。記号論理学的な厳密さが要求されているわけでもない(ジャッジのバックグラウンドによっては近い捉え方で試合を見ている人もいる)。では、どのような振る舞いを求められているのか。
極端な要約をすれば、ディベートにおけるロジカルさは、提出する議論の出し方・形式の話をしている。限られた時間の中でより自身の勝ちに近づくように話さなければならない。30分かけて記号論理的に誠実な立論をしても意味がない。立論は6分間しかないからだ。哲学をするときに、小難しく話が飛ぶ書き手であっても、そこに確からしさや救いがあれば読み解く価値があるかもしれない。だがディベートの時間は限られている。ジャッジの誤解は判定の操作可能性を著しく下げるから、意図の伝わりにくい悪文は極力排除されたい。反対に時間を余らせてもいけない。6分間の立論のうち3分間しか話さない選手をいい選手だと言う人はいない。そのスピーチ時間を最大限有効活用できる選手がいい選手だ。
そしてディベートではエビデンスを生み出すことを期待していない。公開情報を引用し立論することを求めている。情報の生産者としてではなく情報の消費者として、知的誠実さを損ない過ぎない範囲で情報を取捨選択する能力が求められている。
つまり、情報を消費する立場の人間としての情報処理能力や限られた時間を必要十分条件に利用して情報を伝える能力をディベーターは求められている。これを良くこなすディベーターの議論はコミュニケーション点やバロットが高くなり、ロジカルだと評価される。ディベートの論理だ。
ではディベートにおけるロジカルさを身につけるのはどのような効果をもたらすのか。求められるロジカルさが似ている領域のことが得意になると考えるべきだろう。ディベートをしても早口で話すオタクが生まれるばかりで男性的な論理からは脱落する人間が育つだろう。例えば、ディベートの論理は、多くの労働者が求められるロジカルシンキングに似ている。特定のビジネス領域にのみ通用する方法論などを除いて、一般的なビジネスの領域でのロジカルシンキングの指す内容の多くは情報の整理の技法や労働者間のコミュニケーション手法に割かれている。ビジネス書に書かれる「端的に結論から話す」、「理由は〇点あると明示する」といったコミュニケーションはディベーターなら当然にできる。なぜなら大量のエビデンスを取捨選択して内因性を選りすぐり、ナンバリング・ラベリングをしてディベーターはスピーチをする。職場で報連相が下手くそなのはディベートも下手だということだ。相手の求める情報を適切に取捨選択する能力に欠けるということだから。ディベートが役に立つというのはこのようなケースにおいてである。そうでないケースで役に立たないという批判をしても、ディベートでは筋力は求められていないというに過ぎない。現代社会で私たちが鍛えるべきは報連相の技法ではなく筋力なのかもしれないが。