それは思考が何に制約されるかという意味で異なっている。
現実で政策決定をする人間は様々なステークホルダーに囲まれ、合意形成のために利害調整をして意思決定に責任を持つ。特定の規制を撤廃するという政策決定をするとき、規制によって利益を得ている集団と向き合わなければならない。その利権は単に経営者の私腹を肥やすばかりではないことが多く、その全体不合理な構造のもとでより高い利益を得て子供を養う労働者もいる。政治哲学的に不正義だとしても彼らへの補償をおざなりにしては合意は調達出来ない。そうした複雑に絡み合った利害関係の輪の中を前に思考は制約を受ける。また、政策が失敗すればその責任を取らねばならない。謝罪や賠償、引責辞任をすることになる。力強い青年の主張が青二才の絵空事になってしまうのはこの制約によってである。
ディベートはそうした制約を受けない。憲法改正を伴う論題において改憲を阻止したい勢力への配慮は不要だ。プランを唱えれば直ちに憲法改正が決まる。その意味において自由だ。思考は現実に制約されない。突然民主主義を辞めて軍事独裁を始めたって構わない。そしてディベーターは政策の結果に責任を持たない。なぜならディベートの試合の判定を出すことは政策決定を意味しないからだ。ディベートをしても明日は変わらない。ディベートで如何に軍事独裁を唱えても、明日憲兵があなたを検閲し逮捕することはない。人種や性別を差別したり、対戦相手を侮辱したりしなければ、どんなことを言ってもその身は無事だろう。規制緩和により仕事を失う労働者に夜道で刺されることもあるまい。
ではディベートが何からも自由かというとそうではない。第1に論題に制約されている。多くの大会においてディベーターは論題を選択できない。出来ても数択から選ぶくらいだ。今何を議論すべきかを完全に自由に選ぶことは出来ない。肯定側と否定側とジャッジでそんな合意形成をしていたら一日が終わってしまう。ディベーターは論題を選びに来たのではなく試合をしに来たのだ。
第2にディベーターの思考は競技性に制約されている。勝てないことを好き好んでやる選手は少ない。多くは勝てるように議論を考えてくる。
上記の制約の中でディベートの持つ効果については以前の記事を参照してほしい。
多くの活動は領域を持ち、それに伴う何かしらの制約を持つ。本当に制約なく自由に思索を巡らすことはその人の勝手だが、勝手でしかない。真に自由な思考が意味を持つのはごく一部の天才の創造的な仕事に限られるだろう。多くの人たちは制約の中で仕事をしていくしかないし、それらにはそれなりの意味がある。