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2025/09/22
三浦しをんの現代語訳『菅原伝授手習鑑』、午前中に読了。カタカナの外来語が使われることは違和感はないのだけど、言葉のチョイスがちょっと…十年前の訳にしてはダサさがあり、空回りしているような気がしてしまうが、それでも全体としては読みやすく、歌舞伎ではなかなかかからない段の内容も知れてよかった。
あとがきが良くて、涙ぐんでしまった。
これは、私たちのための物語なのだ。歴史に名を残すことなく、けれどたしかに感情と思考を持って、懸命に生きている、そういう、権力者の都合や思惑で踏み潰されていいはずがない人々の、声なき声に耳を澄まし、それを文字で掬いとって、文字を介さずに表現できる芸能で観客に伝えようとした、私たちのための劇なのだ。(254頁)
また、『菅原伝授手習鑑』は合作故に人物像の一貫性がない面もあるが、厳密な身分社会では人は立場によって「人が変わった」ような言動をせずにはいられなかったのではないか、確固とした「自分」や「個性」があるというのは幻想ではないか、という三浦しをんさんの視点を知ることができて良かった。今回はじめて通しで見て、なかなか人物像が捉えきれず大きな物語としての流れが掴みにくいなと最初思ったのは、こういう視点が足りなかった面もあるのかもしれない。読み終わってから見た夜の部は、すっきりと見られるものがあった。
今日はPちゃんと。歌舞伎座に行く前に、ロエベのバッグを買う(!)というのでお付き合い。パズルバックというやつ。わたしも持たせてもらったが、かわいかった。わたしも来年くらいには、どこかしらのブランドバッグをえいやと買いたい気持ちになってしまう(まんまと)。
2度目のBプロ・夜の部は寺子屋の幸四郎丈が良かった。前提として源蔵を演じる染五郎くんが、危なげがなくなって格段に小慣れていて、落ち着いて全体を見られるようになったというのはある。今日は一等席だったので、細やかな演技が見られたのも良かった。松王丸特有の不気味さのある登場からの、首実験で一転する印象、首桶を覗き込む表情がまるで地獄の底を覗き込むようだった。その後、俯き加減で震える唇で堪える様に父親の悲しみが深く滲む。泣き笑いにも、いろは送りにも、王道を演じ切る凄みを感じた。
5月の勧進帳、團十郎丈の弁慶でも思ったけれど、今月の幸四郎丈の松王丸のように、ニンに合った役者がニンの役をやることの、王道感には堪らないものがある。一方、6月の菊五郎さんの松王丸は決してニンではない。ないからこそのもがき苦しみながらも形作ろうとする様にも感動させられるわけで。堪えても堪えても、感情の発露がやもすると涙となって溢れてしまうような菊五郎さんの松王丸のことを、わたしはやっぱり好きだと思うのだった。
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2025/09/23
気になっていた雑穀、高きびを買ってみたので、お米に入れて炊いてみる。スーパーフードとしてお肉の代替にもなるらしい。もちきびより存在感強めでぷちっと美味しい。今は、白米・玄米・古代米・もち麦・もちきびをブレンドして炊いてるのだけれど、今後はこれに高きびも入れよう。雑穀米が好きなので、なんでも入れれば入れるほど美味しいような気がしてしまう。

午後は、能を見に水道橋にある宝生能楽堂へ。今回初めて赴く。『隅田川』がかかると知ってチケットを取っていた。世阿弥の息子、観世元雅作。人買いに拐われた息子・梅若丸を探し放浪する母の物語で、結句、息子は死んでおり母の悲嘆で幕を閉じる。後年、隅田川の題材は浄瑠璃や歌舞伎にも取り入れられ、隅田川物と総称されるほどに、人々の心を捉えるものだったようだ。一度見て見てみたいと思っていたのだが、いやはや壮絶。ぼろぼろと泣いた。こんなにも強烈な悲しみを能から受けることがあるんだという驚きがあった。梅若丸が死んだと知って、その墓の前にたたずむ母に届く清々しく響き渡る子供の南無阿弥陀仏の声が、あの能舞台の上ではどこまでも異質で、母からは遠く隔たっていることが、ありありとわかって辛かった。作者の観世元雅は子方(子役)で幻影の梅若丸を出すべきと主張したが、父の黙阿弥は見えない存在として子方を出さずに母の演技のみで想像させるべきと意見が分かれたらしい。今回は子方が出る演出だったが、その悲しみの生々しさ、あまりにも人の無常との向き合い方に容赦がないと思わせるものがあった。子方が出ない演出もいずれ見てみたいと思う。
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2025/09/24
昨日は寝付きが悪く、睡眠時間短め。四連休に対する名残惜しさから。とはいえ5時過ぎには目が覚めてしまうので、ちゃんと軽く運動してから出社。長袖一枚では微妙に寒いような。そろそろトレンチコートを着ないと。一度寒くなり始めるとあっという間に厚手のコートの季節になってしまうから。
会社近くの物産館で不定期で売っているクッキー、この前試食させてもらったのが忘れられないくらい美味しかったのだけれど、一緒に試食した同僚が「今日、出店しているよ!」と教えてくれたので、帰りに寄る。袋入りでいくつか種類があって悩んでいたら、女性が脇からさささっと全種類取って買っていて、「お!」となる。ぶどうとくるみのクッキーにした。
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2025/09/25
昨日買ったクッキー、やっぱりめちゃくちゃ美味しい。カリッカリッとくるみが香ばしい。いろんな人にプレゼントしたいなと思う。

1ヶ月の無料トライアル中なのに、なにも見ずに終わりそうになっていたUーNEXTで、駆け込みで川本喜八郎作品集を見る。人形劇の平家物語の人。人形劇だけではなく、アニメーションの作品もあった。すごい世界観だ。子供の頃に見ていたら、多分夢でうなされたと思う。一番見たかったのは『道成寺』だが、同じく能を元にした『火宅』、今昔物語を元にした『鬼』もよかった。
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2025/09/26
会議で見せる進捗管理表を、せっかくだし小洒落た感じにするかとくすみ色の配色で作ったら、やたらと「お洒落!」と好評で笑ってしまった。ちょっとしたことで、必要以上に良いように見えてしまうことってあるよな、と。どうであれ、仕事を着実にやっていく上では、一個一個の評判に調子に乗り過ぎたり、あるいは逆に蔑ろにしたりせず大切にしていくことが、割と大事なんだなと思う今日この頃。

UーNEXTの無料期間が今日までなので、最後の最後に『夜叉ヶ池』。1979年の映画だが、4Kデジタルリマスター版で映像が綺麗。百合と白雪姫を演じる当時29歳の坂東玉三郎丈は、これが映画初出演だったそう。衝撃的な美しさ。うっとりと眺めてしまう。脚本で読んでいたが、雨乞いのために百合を生贄にしようと村人たちの暴力性には映像で見るとよりぞっとしてしまう。かつて同じ仕打ちを受け、妖となった白雪姫が全てを水没させるクライマックス(40トンもの水が使われているらしい)は迫力があり圧巻。また、どこかで上映されるようだったら改めてスクリーンで見てみたい。
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2025/09/27

今日は新国立劇場で国立劇場主催の『仮名手本忠臣蔵』。松竹主催の歌舞伎座での通しではかからなかった、二段目と九段目をかけるとことで、二つの公演を合わせてようやく『仮名手本忠臣蔵』の全容がわかることになる。二段目と九段目は、塩冶判官、大石由良之助、早野勘平に続いてもう一人の主人公とも言うべき加古川本蔵の物語だ。始め、高慢な高師直の誹謗中傷の的となっていた桃井若狭之助の家臣であり、表向きは恥辱を受け怒り心頭の主君に「切っておしまいなさい」と勧めておき(この話が今回の二段目)、秘密裏に師直に賄賂を手渡して主君に謝罪させるよう仕向け(三段目冒頭)、その結果、次の標的になった塩冶判官が刃傷沙汰を起こしてしまう。また、塩冶判官が師直に切り掛かった際に、殺めなければ罪が軽くなるのではないかと考え、抱き留めて止めるのも加古川本蔵である。
そして、九段目(山科閑居の場)。加古川本蔵の娘・小浪と、大石由良之助の息子・力弥は許嫁だったが、藩取り潰しとなった大きな要因である本蔵の娘との婚姻を由良之助の妻・お石はすっぱりと断る。事情を知らない小浪と本蔵の後妻の戸無瀬は戸惑い、悲嘆に暮れて、二人で自害を決意する。小浪と戸無瀬は血の繋がらない親子であるが、その深い親子愛が心中によって結実しようとした瞬間、虚無僧に扮した加古川本蔵が突如現れてお石を襲い、力弥がそれを討つ。刺された加古川本蔵は自分が命を擲つことで、娘の婚姻を成し遂げようとしたことを打ち明けるのだった。
いやはや、加古川本蔵、凄まじい豪傑だった。忠義のためでなく、子のために死に、最後まで塩冶判官の短慮さを嘆く様が、異様なほどに現代的に映るのだけど、一方で大石由良助・力弥親子が仇討を実行すると知って、そんな力弥に小浪が嫁入りできるなんて誉ぞと喜ぶ面もあり、そのアンバランスさが強烈に印象に残る。今回、79歳で初役で加古川本蔵を務めた中村梅玉丈、素晴らしい演技だった。
山科閑居まで見て、改めて『仮名手本忠臣蔵』が数多ある歌舞伎の演目の中で随一とされることに納得がいくものがある。今よりもずっと生き方に自由がなかった時代、一つの過ちを取り戻すことは極めて難しく、時に個人では手に負えないほどに大きな悲劇と発展しても、逃げ出すことは不可能だ。是非のない状況で、どう生きてどう死ぬかを誰もが突きつけられる。残酷な運命が容赦なく人々を蹂躙する。悲劇を跳ね除ける力を持つものはいない。それでも、一念によって何かを成し遂げようとしたことには、大きな意義があるという、強い願いをこの作品には感じる。
新国立劇場の行き帰りと幕間で『忠臣蔵と日本の仇討』読了。池波正太郎をはじめとした豪華執筆陣のノンフィクション・アンソロジー。日本史系の知識が乏しいので、忠臣蔵の実態も初めて知ることばかり。初めは120人程いた同志が47人まで減っていながら、討入の情報が吉良方に漏れなかったのは凄い。それだけ由良之助、ではなく史実では大石内蔵助の計画が緻密であったということか。討入が成功すると、脱盟者の中には責められて腹を切ったものがいるのは悲痛だなと思った。紆余曲折があったのだろうが、十三ヶ条の心得を見るに、残された四十七士は結束し、整然と仇討に邁進した様が伺える。敵討とは肉親の讐を討つものだったのが、主従によって行われた赤穂浪士がいわば仇討の代名詞となるほどに、それは鮮やかでセンセーショナルだったのだろう。志士たちの動きは仔細に文献が残っている一方で、なぜ浅野内匠頭が刃傷沙汰を起こしたのかは、謎に包まれているのも、当時も今も人々の心をとらえて離さない要因だろうか。事件後三十年経った後に、赤穂浪士たちの行いの是非が学者の間で論争となっているのも面白い。
高橋富雄(東北大学名誉教授)の文章が強烈。「生きてまず成し、成さざれば死ぬというのではない。まず死ぬのである。そして成すのである。それが生というものだ。仇討というのは、その、死して、成して、そして生になる武士道の頂点にくる、ドラマの世界と言わなくてはならぬ(45頁)」死によって結実する歌舞伎の多くの演目にも通じるように思う。
曽我兄弟の仇討ちに寄せた田中澄江(脚本家)の言葉も良かった。「泣くひまに、兄弟を生かしておく方法はなかったのか、仇討ちをやめさせられなかったものか、満天下に恥をさらしても、生きていよと告げる女たちでありたかったと思う。(197頁)」古典を見るとき、命を擲つこと、子を犠牲にすること、現代の論理で断罪してはいけないと思いながらも、しかし心の中でやりきれない気持ちを抱き続けることは必要と思う。
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2025/09/28
コストコの商品紹介をしている動画を見ていたら、焼豚が美味しそうで食べたくなったので、朝から焼豚を仕込む。コストコって一生行くことないんだろうな。
以前は午前中に集中して常備菜作ってしまったら、午後は有意義に過ごせるんじゃないかと思ってたんだけど、結局疲れちゃって昼寝しつつだらだらしちゃうだけだったから、最近ちょこちょこ料理したり書き物したり読書したりで日中を過ごすのが良い感じ。時間がゆっくり流れる。