※自分の記憶のための覚書です。
1月4日。当初の予定日通り、福井の実家から富山へ帰る日が来る。
地震発生からずっと、父から主人について『非常時なのだから招集かからなくても会社へ行くべきだ』と言われ続けていて、やや参っていた。主人の会社からは、安否確認はあったものの招集はかからなかった(会社としては直ぐに動いているけれど、勤務地や部署にも拠るのだと思う)。
そもそも富山への交通手段も絶たれている。父の言うことも分かるし、父も兄もそういった職場で働いているから当たり前のようにそれが染み付いている。父は水に関わる職場だったので、私が子供の頃から、台風が来る夜はいつも家にいなかった。風がとんなに強くて怖い夜でも、むしろそんな夜こそ。それは尊敬すべきことで大変なことだと思ってるし、もし夫が直ぐに戻らなければと言うのなら私も一緒に戻る。二人で話し合って決まっていた。だけれど、それを伝えてもお構いなしに今直ぐ出社すべきだ部署が違ってもなにかやれることがあるはずだ、本人が言わないなら妻の私から言うべきだと言われ続け、最終的には私がちょっとぶち切れた。気持ちは分かるんだけども、本人に伝えられないからって私をサンドバッグにしないで! 正論で責められると自分達が非常識で非人間なのだと言われるようで、それがずっとだったので、ちょっと本当にしんどかった。
そんなこんなで老親を過度に心配させつつ、迎えに来てくれた夫と共に帰路へ。同一方向になる夫の親族1人を乗せて、ガソリンは満タンにしてから高速に乗り、福井を発った。
高速では直ぐに、被災地へ向かう支援車をいくつも何台も見かけた。奈良、京都、姫路、他にもたくさん。どうかお願いしますありがとうございますと思いながら、すれ違う度に助手席で堪えきれない涙を拭っていた。
何度も、何度も何度も、石川へは緊急車両以外は入らないで、一般車は通行禁止すべきだという声をネットで見ていて、いたたまれない気持ちだった。道路が寸断され渋滞となっていたのは金沢森本からインターを降りて能登へと入るルートからなのだけれど、石川を通過させてもらうことに対する申し訳なさがすごくあった。石川を経由しなければ富山には帰れない。北陸道は元々そんなに混み合うことはないけれど、この日は支援車以外の一般車は確かに少なく、そのことに関しても強くごめんなさいごめんなさい、と心で謝罪していた。
何度も通って慣れ親しんだ北陸道からはあまり地震の影響は見つからなかったけれど、ギリギリまで通行止めになっていた金沢〜富山間は、大きく崩れたのであろう痕跡が残っていた。片側通行から見た本来の道路は、真新しい色濃いアスファルトで整備されながらも、ガードがごっそり消えていて、あああそこが崩れたんだと一目で分かった。
富山に着くと親族を下ろし、アパートへと戻る。私の住んでいる地域は震度5強の揺れで、いくつかのショッピングセンターは天井が落下したと聞く。恐る恐る玄関のドアを開けた。靴箱の扉が開いていて、防水スプレーや靴べら、軽いものなどが玄関のたたきにいくつも転がっていた。靴は落ちてなかった。福井よりやっぱり酷い……と感じながらダイニングに入る。入口近くの床には、キッチンカウンターに置いていたアクスタが落ちて転がっていた。室内に進むと、いつも座っているソファの横には照明カバーが落下していて、棚の上などに置いていた置物類は全て転げ落ちていた。PC机や食品庫の棚は本来の位置から斜め前にずって動いている。スライド式の棚は勿論飛び出し、いくつかの他の扉も開いたり中の小物が床にはみ出ていた。
スマホで写真を撮りながら一部屋一部屋回っていく。寝室はベッドと空気清浄機しか置いておらず特に問題なし、押し入れ内も大丈夫だった。寝ているときにタンスが倒れたら危ないよね、と以前から寝室は徹底して物を置いていない(※置くスペースもない)。
本棚や洋服タンスを置いている部屋は、落下した小物が散らばっていた。特にタンスの上に置いていた物は全て落ちていた。マスクの箱等の軽いものから、タオルを収納していた無印良品のコンテナも(これは後日置き場所を低い位置に変えました)。本棚は天井との間に突っ張り棒をしていたことが幸いしたのか、本が棚からはみ出るほど前に突き出したものの、小物などが押し出され落下しただけで済んでいた。タンスは引き出しという引き出しは前に飛び出してはいたけど、床との隙間に転倒防止グッズを差し込んでおり、タンス自体が動いたりはしていなかった(後日、リビング用に不足していた分を追加購入)。
洗面所は扉が開き、落下防止バーがついていない箇所だけ、全部中身が落ちていた。大事にしている推し香水は、倒れてはいたものの落下防止バーのおかげで難を逃れ、泣くほど安心した。なんで全部についていないのかは解せない。
基本的に、割れたり壊れたりしたものははひとつもなく、それは心から安堵できた。でももし地震当日、この部屋にいたらどれだけ怖かったか分からない。照明のカバーなんて、軽い素材だし当たってもきっとドリフのタライよりきっと痛くない。でも大きく家が揺さぶられ、目の前の扉が勝手に開き小物が次々倒れ、天井から突然照明カバーまで落ちてきたら、平静では絶対いられない。福井の揺れですら手の震えが止まらなかった、その場で硬直していた。
だからこそ、能登の人の怖さがどれだけだったろうと考えてしまう。こんなの比じゃないのに。能登だけじゃなく、東日本大震災のときも、熊本地震も、北海道も、阪神も。
高岡、氷見、七尾(富山側)へそれぞれ別日に行く機会があった。高岡と氷見は富山県内だけれど、位置は富山湾を挟んだ能登半島の向かい側。富山県内では特に氷見、高岡に大きな被害が出ている。海に近い大通り、ほぼ全ての家屋に紙が貼られていた。緑は調査済、黄色は要注意、赤は危険。赤い紙を何枚も何枚も見た、お店らしい四角い建物が斜めに大きく浮き上がり傾いていた、歩道も道路もあちこち割れていた、亀裂が走っていた。フェンスが歪んでいて、ロープで括っている建物をいくつも見た、ブルーシートに覆われた家をいくつも見た。
富山に越してくる時、高岡は候補のひとつで、もしかしたら住んでいた場所かもしれなかった。
七尾は、道路は私達が通った僅かな箇所のみだけれど、7割ぐらいは綺麗だった。綺麗にしてもらえていた。イメージ的には、地割れ(穴)や隆起(凹凸)は穴を塞ぎ上からサンドペーパーで擦って平らにしたのか?みたいなそんな感じに見えた。あくまでも車道が湧泉のため、横の歩道は浮き上がってボコボコに突き出していた。赤いコーンがいくつもいくつも歩道や車道の端に立っていた。
頑張ろう能登、そう印刷されたのぼり。今は支援する側が頑張るから、だから頑張らなくていい安全な温かい雰囲気場所で休んでほしい、そう思いながら通り過ぎる風景のそののぼりに思いを寄せた。営業を再開しているお店はいくつもあったけれど、どこもトイレ使用不可の張り紙が1ヶ月経った今も入口に貼られていた。七尾市は今も一部地域で断水が続いたままだ。
富山に戻って少し経過した頃、主人が被災地での支援のため泊りがけで現地に行くことになった。向かったのは山間の小さい集落のひとつ。通常時でも携帯の電波が届かず(全ての携帯会社がNGなのかは不明)、でも主要幹線道路へは比較的アクセスしやすい、川と少しの田畑と山に覆われた小さい集落。夫が向かっている間、私は何度も何度もGoogleマップでその集落を見ていた。ストリートビューは9年前。
戻ってきた夫は「行かないとわからない。写真やニュースじゃ伝わらない。酷い」と漏らした。それ以上のことはあんまり話さなかったけど、予備に持たせた厚めのあったか靴下は(ギリ仕事に履ける厚みでとにかくあったかそうなやつを直前に慌てて買い足した)、一緒に行った若い子が長靴じゃなかったせいで雪で濡れてびしょびしょになっちゃった……と嘆いていたのであげたよ、と言ってきたのでそれは良いことをしましたね、と返しておいた。余分に持たせて良かった……。