何年か前に先生が「篠原君。古本屋が一番忙しくなるのは、いつやと思いますか」と聞いてきたことがあった。なんとなく嫌な予感がして、困った顔をして黙ることしかできなかったが、先生は「学者が死んだ時ですよ」と続けた。著名な教授が急逝した数日後のことだった。 また別の日には、「僕に何かあったら、篠原君にも幾らか本を差し上げますので」と言われた。なんの気なしに言われたにも関わらず、ただの口約束ではなくて、先生にいつしか「何か」があるのがはっきり想像できて、とても暗い気持ちになった。 大学を卒業して一年が過ぎたが、また最近 機会に恵まれ、先生の研究室に足を運んでいる。そのたびに蔵書に囲まれ、数年前に言われた「古本屋の繁忙の理由」と、「先生の身にいつか起きる何か」について考えざるをえなくなる。 古本屋に売らず、私に本を与えてくれる人がいるというのはすごく嬉しいし、そんな風に気にかけてもらえるのも有難いが、そんな日は一生おとずれてほしくない。私が譲り受ける本以外が、古本屋に流通してしまうのも絶対に嫌だ。 研究の際、古い文献にあたると「この文献が書かれた当時、携わった人達はみんな亡くなっているんだな」と考えることがよくある。もう死んでいる人間が生きている時に書いたものを、生きている私と先生がが読んで、議論を交わしたりするのはすごく不気味で不思議に感じられる。かと言って生きている人間の書いたものについてああだこうだ言うといろいろと面倒ごともあるから、「死んでいてくれてよかった」と思う日もある。 だが基本的には、私と関わる人はみんなずっと生きていてほしくて、誰一人死んでほしくない。元気に生きて、いろんな謎や疑問にぶち当たって「よく分からんなぁ」と言って、いろんな文献を手当たり次第に読みあさってほしい。先生や他の人はどうか知らないけど、私はそういう作業をしている時が一番楽しい。 先生とまた研究をするにあたり、一万円以下の書籍なら相談なしに買えとのお達しがあった。資料となる書籍は、主に古本屋で探すことになる。誰かが手放したから手に入る本があるというのは、寂しいけど、なかなか尊いことだなとも思うし、誰かに何かしらの影響を与えた本を、必要があって私が手に入れるのはすごいことだとも思う。
派手歌人 京都在住の獅子座の女 あだ名はラブリー たわむれチャーミング
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