チベット仏教における葬儀について少しだけ習ったことがあって、お坊さんが遺体に教典を読み聞かせて、意識が体外へ抜けるように促す儀式がすごく印象に残っている。他の宗教はしらないけど、チベット仏教では教典を聞かされた遺体の顔の部分から体液が出てくると無事に死体から魂が旅立った証拠になるらしい。亡くなってから埋葬するまでの期間は占いによって決められるから、その期間が長ければ体液が出やすくなるだろうけど、その分、次に人間として生まれ変わるための試練がより大きくなるとか授業で観たDVDでは説明されてて、ははぁよくできているなとか思った。
きょう病院で採血をされる時に貧血を起こしてしまった。看護師さんが慌ててわたしをベッドに運んでくれて、硬いマットレスに転がされながら手の甲に針を刺され、グッと血を抜かれている間、ぐらぐら揺れる視界で天井を見つめたら、DVDで観た、黒く雪焼けしたチベットのお坊さんの肌や、カラカラに乾いた死体のまぶたのことを急に思い出してずっと気持ちが悪かった。きのう少し部屋の掃除をした時に、去年死んだ犬の服やおもちゃを思いきって捨てたんだけど、針を刺されて痛む血管を悲観しながら、チベットのことから犬が死んだときのことへと思考をずらしていった。犬の死体というものはすぐに弛緩するから体液が穴という穴から出るので氷をたくさん用意しておかなくてはならないという近所の人の助言をよそに、うちの犬はどこもゆるむことなく、うちの犬のまま固くなって、うちで一晩を過ごして、火葬され、骨になった。
飼ってた犬だけじゃなくて、犬という生き物の骨を見ること自体その時が初めてだったんだけど、骨になっても犬は犬だったので、骨を見た途端に、少し気分が楽になった。犬は体液を出さなかったし、チベットでそうするようにお坊さんと死体が二人きりになるという状況にはいなかった。うちの犬が死んだと聞いたお友達や近所の人が弔問に来てくれて、それぞれに黙祷を捧げたり体を撫でて帰っていった。犬の魂が体からきちんと抜けたかとか、成仏したかとか、はたまた生まれ変わったかはわたしには分からない。チベット仏教的には犬の葬儀は失敗だと言われるかもしれない。でも、わたしはあれ以上の犬の送り方を知らない。
わたしは人より血管が細いらしい。採血や点滴の時に看護師さんが一様に困った顔をする。腕をぺしぺしと叩かれる。挙げ句、血管がないと言われる。あるはずなんだけど、そう言われる。血液を体外に出すのがむつかしいということなのかと思う。生きてても死んでても体液が出やすい人は出やすいし出にくい人は出にくいんじゃないか。わたしは死んだことがないから、死後に自分の体から液体が出るかどうか確認しようがないけど、きっと犬も私もたまたま体液が出にくい体質で、我々がチベットの地で死んだら、こいつの魂は体から出なかったのだとか、次は虫として生まれ変わるかもしれないとか言われるのかと思うと、少し愉快だと思う。久々にパソコンで文章を打ったら目がチカチカする。血液検査の結果は一週間後に出る。寝る。