自殺のはなし - 2015年10月26日の日記 -Tumblrより

篠原あいり
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この数年、近しいところでの自殺のニュースをよく聞く。人の死に対しては大抵驚いてしまうし、残念に思うが、自殺のニュースはただビックリするとか、がっかりするとか、そういうものとは別の重い物がのしかかってくる感じがする。これは多分、わたしが十年前に、自殺をしたことがあるせいだと思う。 「自殺未遂」でなく、「自殺をした」と書くのは、あの時まさにわたしは一度死んでいて、母親に助けられた瞬間、生まれ変わったような感覚があったからだ。あの時のわたしは「助かった」ではなく、「生まれた」と確かに思った。わたしは自分を殺したことがあるし、自分の生まれるところを見たことがある。 人の自殺に触れるたび、のしかかる重い物の正体が、また新たにニュースを聞いた今日、なんとなく分かった気がする。誰かが自殺をする時、わたしも殺されていて、死んでいるのだ。このどんよりとした重さは、わたしが死ぬ時の、命の重さだ。十年前に手放した、あの重さだ。誰かがわたしと同じように自殺をする時、わたしは律儀に殺されるし、律儀に死ぬ。 自分の手で死んだ君。わたしは、君だったことがあるよと、重さを受け止めながら思う。わたしは自殺に「失敗」したけど、君は、「成功した」と思っているか、「失敗した」と思っているか、わたしには分からない。 人の死は、その人が死んだ瞬間、死んだ人自身の物ではなくなって、残った周りの人たちの物になる気がしているけど、自殺で死なれると、その辺の線引きが曖昧になる。でも、君が死ぬたび、君の死は一瞬、ほんの一瞬だけだが、確実にわたしの物になるので、とても苦しい。わたしはもう殺されたくない。 「死にたい」と言っている人に「頼むから生きてよ!」と言うのも、「うるせーよ死ねよ」と言うのも、どちらも不躾だと思っている。「死にたい」っていう気持ちは、「ごはんが食べたい」とか「旅行したい」とか、そういう、誰もが普通に抱くものなので、それらに対して「頼むからやめて!」とか「さっさとしろや!」とか言うのは大袈裟だし、お門違いだ。だから、自殺に「失敗」した人に、「生きててくれてよかった」と言うのも、なんだか変な話だと思う。思うのは自由だけど、言うのは少し、変だ。 わたしの自殺の話を聞いて「生きててくれてよかった」と言った人は何人かいて、わたしはそう言われるたびに「そうね」と言う。わたしも自分で「生きててよかったなぁ」と感じることが多いから、純粋にそうだと思って「そうね」と答えるが、それよりも「死んだら嫌だな」と言われた時の方がしっくりきた。わたしはその時も「そうね」と答えた。 人が死ぬのは嫌なのだ。とてもシンプルなことだ。人が自殺すると、その人も死ぬし、わたしも死ぬので、わたしは更に嫌なのだ。君はどうなのか分からないけど。

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@matsugemoyasu
派手歌人 京都在住の獅子座の女 あだ名はラブリー たわむれチャーミング vir.jp/matsugemoyasu