仕事の帰り道、なまぬるい春のにおいを感じて少しめまいがした。
季節にはそれぞれ始まりのにおいがあるが、わたしは春のそれがあまり得意ではない。草が湿って青くさくなる様子や、花粉とほこりにまみれて大きな何かがひっそりと佇んでいる様子が脳裏に浮かんで、恐ろしくなってしまうからだ。その恐ろしい春の魔物は中学校の入学式のあの日からわたしを引っ掴んで離さない。グラウンドの土のにおい。桜がほころぶ直前のにおい。上半身はぬるま湯に浸かっているような心地いい温度なのに、足元だけがしんと冷たい。大人になったいまでも、レンガ道にいようがコンクリートの道路にいようが、その春のにおいはわたしを一瞬にしてあの日のあの時間まで連れ去ってしまう。全ての始まりのにおい。わたしにとっての終わりの始まりのにおい。胃がキリキリとする。入学式を終えて、似合わない制服のまんま畳に寝転んだ、あの、昼下がりの日差しのにおい。背中にい草の冷たさをじわじわ感じたまま、配布された生徒手帳を開く。紙のにおい。おろしたての通学用のリュックのにおい。新しさのにおい。始まりのにおい。
走馬灯と呼ぶにはあまりに緩慢だが、わたしは明らかに焦っていた。あの春のにおいを感じたその日のうちに、親に学校へ行きたくないと言えたらなにか結果は変わっていただろうか。大人になっても春のにおいに怯えなくて済むようになっていただろうか。何もわからない。わたしは頭痛薬を急いで飲み、ボディクリームを手に塗って深呼吸をした。人工的なジャスミンのにおいがした。わかりやすいなと思った。