卒業してしまう私と、先生のはなし - 2014年2月28日の日記 - Tumblrより

篠原あいり
·

きのう、学校のサイトの情報システムにアクセスして成績を確認したところ、どうやら卒業できるようだった。きょうは封書で通知も届いた。全身の力がスワッと抜けた。この一ヶ月ほど、単位が足りなくて脂汗をかくという夢を見まくっていた割に、卒業予定者一覧の中に自分の学生番号を見つけても、自分が四年間通った学校から巣立つというのがどうしても理解できない。三回ほど間を空けて見直してみたが、やっぱり卒業はできるみたいだった。見間違いではなかった。そうか、卒業できるのだな。頭の後ろがじんわりと熱くなったあと、冷たくなるのを感じた。

一回生の頃は今より体も弱く、勉強に対するやる気もなかったので、必修科目をなんとか取れれば御の字くらいの状態だったのだけど、二回生になってからツイッターやこの日記でもたびたび書いてきた「先生」の授業を受講することでようやく目が覚め、学生としての私の輪郭がハッキリした。先生の授業をたまたま時間が空いているからという理由でとっていなければ、今ごろ私は卒業できていなかったと思う。それほど先生の授業は面白く、小学校に入学する前、ひらがなの書き方を母からひとつひとつ教わった時ぶりに、人から学ぶことの重大さを感じたのだった。

先生の授業はただ面白いだけではなくて、私がかねてからやりたかったものはこれだと確信させるパワーがあって、「そうか、勉強が楽しいってこういうことなんだな、私がやりたかったのはこれだ」と先生の講義中に気づいて、涙をポロポロ流してしまったこともある。そのような体験ができた学校を、私はあともう少しで卒業してしまう。卒業できるのは先生のおかげだけど、先生のせいで卒業したくないと、どうしても考える。

大学に入る前に参加したオープンキャンパスで、学校の名物教授と話す機会があったが、その名物教授は、まだ右も左も分からないただの高校生の私に、「文学に恋しろ!」と、それはそれは大きな声で言った。鼓膜がビリビリとした。胸が震えた。単純な私はすっかりその熱にやられてしまった。間違いなく恋だと思った。

先生にこの時の話をすると、「全く、あのジジイは」と言って笑っていた。

先生には伝えていないが、名物教授の話はもう少し続く。教授は、「どんな作品にでも、何かに強く恋するキャラクターが出てくる」と私に教えてくれた。

「それは、相手が異性の場合もあるし、同性の場合もある。はたまた、ちがう生き物に対しても、建物に対しても、どんな作品にも、何かに強く執着するキャラクターが必ず出てくる。文学はその気持ちや高ぶりとかの揺らぎを表現した芸術作品で、感動の表現そのもの」

私と先生の日々を思い返す。先生と一緒にいる時間があまりにも多いので、心ない学生に「あの先生とあの学生はできている」という根も葉もない噂を立てられたこともあるが、先生と過ごした時間に対して、私は間違いなく恋をしていたと思う。先生の研究室を何回ノックしたかもう数え切れないが、何度ドアを鳴らしても、私の胸が騒がなかった日はなかった。夏休みを返上して先生と勉強をしたこともある。祝日に停電するということをすっかり忘れて、暗がりの中、先生と古文書を読んだこともある。先生の昔の話を聞いて、嬉しくなったこともある。先生との時間を表現するにあたって、少し気取った言葉を使うべきなのかもしれない。それこそ、先生から教わった美しい日本語の数々は私の血肉となっていて、今こそそれらを披露する時なのかもしれない。だけど、ここではただただ、単純に楽しかったとだけ述べておくことにする。言葉を使う上で最も重要なのは、本質を伝えることだと先生から教えられたからだ。本当に本当に楽しかった。これほど楽しかった日々から、私は卒業してしまう。信じられない。まだ式は先だというのに涙が止まらなくなって画面がにじんでうまく文章を打てなくなってきたので、この辺でやめにする。

@matsugemoyasu
派手歌人 京都在住の獅子座の女 あだ名はラブリー たわむれチャーミング vir.jp/matsugemoyasu