「気をつけてね」を言いたいのはなし - 2014年6月30日の日記 - Tumblrより

篠原あいり
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いつも、出かける家族を見送る時に必要以上に「気をつけてね」と言ってしまう。これはもはや悪癖ともいうべきもので、母なんかは「しつこいな!」と怒っているような笑っているような微妙な表情をして出かけて行く。けれど、これでもかという程に言わないと、わたしの気分はなだらかになってはくれない。たぶん言い続けろと言われたら死ぬまで言い続けると思う。

これにはちゃんとした理由がある。もちろん、受け取る人によっては全然ちゃんとしていないんだろうけど、一応、原因とか根源のようなものは存在している。わたしが9歳のころ、母が飲食店でパートとして働いていて、何度か遊びに行くうちに、そこのアルバイトの男の人を好きになった。男の人はナカジマさんという大学生で、わたしが店に顔を出すたびに優しくしてくれた。わたしは同年代の女の子にしては遅い初恋を自覚しつつ、「りぼんで読んだ片思いってこういうやつなんや!」と少女漫画の気分を満喫した。ある雨の日、友達と家で遊んでいたら、その飲食店から電話がかかってきた。「あいりちゃんのお母さん、ちょっと用事できはったから、今日の帰り遅なるし、ちゃんとお留守番しといてね」母の同僚のおばさんからの言付けだった。わたしは電話をきるなり、友達とお絵描きをして大いに遊んだ。いつもなら夕方過ぎには帰って来る母が、夜になって、目を赤くして小さな声で「ただいま」と言った。どうしたのか聞いたら、母はしばらく黙ってから「ナカジマくんが、事故で死んだよ」とだけ言って、洗面所で手と顔をバシャバシャ洗った。

なんでわたしはおばさんから電話がかかってきた時点で何か気づかなかったんだろう。こういう時、大人はいつも子供を仲間はずれにするけど、どうしてだろう。ナカジマさんが事故で死んだのって、どこでだろう。どうやって死んだんだろう。どうして死んだんだろう。正座したまま、おんなじことをぐるぐるぐるぐると考え続けた。

ナカジマさんは雨の降る中バイクを走らせて、スリップしてしまい、体のほとんどをグチャグチャにして死んでしまったらしかった。顔だけは綺麗な状態なので、その遺体がナカジマさんであると判断するのは容易なことだったそうなのだけど、体があまりにひどい状態だったので、子供のわたしは搬送先の病院にも、お葬式の会場にも連れて行ってはもらえなかった。ナカジマさんをお骨にする時、わたしは学校で国語の授業を受けていた。お葬式に参列だけでもしたいと母にごねたけど、「あいり、分かってよ。おねがい」と泣かれてしまったので、翌日、目を腫らしたまんまで学校に行くしかなかったのだった。

それからというもの、誰かを見送る時は必ず「気をつけていってらっしゃい」とか「気をつけて帰ってね」と言うようになった。わたしが「気をつけてね」ということで、もしも誰かが「そうだ、気をつけなきゃいけないんだった」と思ってもらえたら一番いいし、もしも誰かが事故にあっても「彼らは気をつけた上で事故に遭ってしまったのだ」と自分が納得できるからだ。言わずに誰かを見送ってしまった時はどうしても落ち着かない。お友達と別れたあと、タイミングを逃して言えなかったことに気がつくと青ざめながら「今日はありがとう。気をつけて帰ってね」とメールをしてしまう。

「気をつけてね」という言葉は、半ばわたしの中でおまじないのようなものになっている。そう言ったことで、好きな人たちがみんな無事に家にたどり着けるのだと思っているふしがある。もしそれで何かの事件や事故に巻き込まれたとしても、「気をつけていたってケガをすることだってあるわ」と普通に受け入れることができるのだけど、言わないと落ち着かないのだ。シャツのボタンを留めるような感じで、「気をつけてね」と言わないといけないと考えている。サラッと言いはするが、もちろん本気でそう思っている。わたしはちゃんと「気をつけてね」と言ってさよならしたいし、またちゃんと「気をつけてね」と言うために人に会いたい。なので、みんなには「行ってきます」はちゃんと言ってほしい。じゃないと「気をつけてね」と言うタイミングを逃してしまう。黙って家を出て行かないでほしい。黙って出て行って、それでケガをして帰って来られたら、わたしは本当に立ち直れない。黙って出て行って、ケガをするならまだマシだ、もしも死んでしまったら?最後に何て会話したか思い出せないなんて嫌だ。最後にわたしは「気をつけてね」と言って見送ったのだとハッキリ言い切りたい。ナカジマさんと最後に何を話したのか、わたしはひとつも覚えてないのだ。わたしにちゃんと「気をつけてね」を言わせてほしい。さっき父親が黙って電器屋にルータを買いに行ったので本当に嫌だったのだ。頼むから「行ってきます」くらい言ってくれ。お願い。頼むよ。お願いだから。

@matsugemoyasu
派手歌人 京都在住の獅子座の女 あだ名はラブリー たわむれチャーミング vir.jp/matsugemoyasu