春先と真夏と秋口の、年に三回しか通らない道がある。今日がその一回だったのだが、ペットボトルを切った入れ物がガードレールに巻き付けてあるのを見て、そういえば春に通った時にだけ、そこに花がいけてあるということに気がついた。夏にも秋口にもいけられているのは見たことがないし、花は美しく咲き誇っていたので、ここで死んだ誰かは、ちょうど今くらいの時期に亡くなったんだなと思う。わたしはそこであった事故のことを全く知らない。どんな人がどのように亡くなったのか、ちっとも知らないが、そこに供えてある花を見て、誰かの悲惨だったでたろう命日を把握してしまった。
前にもこういうことがあった。高校二年生かそこらの時、五月の半ばに友達と歩いていたら、その友達が「なんか精液臭い」と言い出したのだ。どうも木に咲いている花が臭いらしいと気づいた瞬間、わたしは「あ!カルキザーメン!?」と叫んだ。椎名林檎のアルバム、「加爾基 精液 栗ノ花」のことだが、わたしも友達もこのアルバムの名前を知っていたおかげで、なるほど精液っぽい臭いは栗の花のことかとすぐさま理解することができて、この木が栗の木で、栗の花というのは五月に咲くのだなぁと知ったのだ。
春先だからあのガードレールで人が死んだ時期だなぁとか、五月だから栗の花が咲く季節だなぁとか、そういう情緒のある四季の感じ方でなくて、ガードレールに花が供えてある春先のいま、誰かの命日なのだとか、精液の臭いがするから栗の花の咲く五月なのだということを考えるのは、案外悪くなくて、なんとなくわたしらしくてむしろ良いなと思う。適当に生きていても、日本の四季は平等に訪れるのだ。ぜんぜん悪くない。