むかし付き合っていた人に「俺のこと好き?」と涙をこぼしながら聞かれたことがあった。わたしが「好きやけど大好きじゃないよ」と即答したら、その人は嗚咽を漏らしてわあわあ泣いた。当時高校生だったわたしはそれを見てドン引きしたのだが、この時のはなしをすると友達みんな「ひどい!ひどすぎる」と言うので、たぶんわたしが悪いのだろうと思う。
わたしに名付けられた「愛里」という言葉の意味をよく考える。特に、愛については考えない日はほとんどない。二十数年、愛という名前を背負って生きてきたわたしの出した愛に対する結論は、愛はおまじないに似ているということだ。
心から信じている人がいたり、嘘だと笑う人がいたり、すごく効く人がいたり、まったく効かない人がいたり、素敵な魔法の言葉のようだったり、何もかもを許せない呪いの言葉のようだったり、その力が強すぎる人がいたり、ごくごくか細い人がいたり。愛はおまじないとよく似ているのだ。
わたしの前でみっともなく大泣きして見せたかつての恋人は、たぶん愛をすごく信仰していて、愛がすごく効いて、呪いのような強大な愛を持っていたのだろうと思う。それと同時に、わたしから受け取る愛も同じくらいでないと嫌だったのだろう。わたしからの愛を信じていたにも関わらず、思っていた形と量をもらえなかったので泣いたのだと、当時の彼より歳上になった今、なんとなく分かる。わたしがひどかったのではなく、彼がおかしかったのだ。
でも、わたしは彼から毎日のように馬鹿にされていたし、会う度に手酷い性的虐待を受けていた。それでも彼を拒否できなかった当時のわたしのことを、今を生きるわたしは大声でおかしくなかったと言いきれる自信がない。それが彼によって捻じ曲げられた価値観だったと分かりきっていてもだ。彼のことを「好きやけど」と言ってしまったわたしは、愛のことをぞんざいに扱っていたのだ。今なら無言で警察に行くが、当時のわたしは愛を信じたくても信じられず、自分の本心が分からなかったのだと思う。今にして考えると、たぶん。たぶんそうだったのだ。わたしも彼もおかしかったし、彼もわたしもひどかったのだ。
今、彼はどうしているのだろうか。彼の名前やmixiで使っていたハンドルネームで検索をかけたら、わたしのあと付き合った女性はいないらしいことと「美人すぎる海女さん」のファンサイトに「癒されました」と書き込みをしていたことが分かった。やっぱりお前のことは好きじゃないわ。