手に馴染むものが好きだ。具体的には万年筆や革製品のことだ。こういったものたちは、だいたいが「使い手に合わせて変化し、使い手だけのものになる」ことを喧伝して売られている。わたしはこういったものが好きだ。万年筆は20本以上あるし、ペンケースも財布も革だ。今は革のキーホルダーを買おうとしている。ではなぜ、こういったものが好きなのだろうか。
ひとつ考えられることとしては、「自分のものがほしい」というものがある。これらの製品は、工業的に生産されてはいるが、万年筆であればペンポイントの摩耗が、革製品であればエイジングが発生することによって、使い手の個性に合わせて変化していく(と言われている)。オートクチュールが手に入らなくても、使っていくだけで簡単に「自分だけのもの」を手に入れることができる。
もうひとつは、「長く使うことが想定されている」というところがある。こういった製品は、たいてい、長く使える。それなりの値段がする場合も多いが、長く使えばまあ……許されるかな……の範囲のものを買えば問題がない(あるいは、そういったものしか買えない)。長い時間を共に過ごせば愛着も湧くというものだ。10年ほど前、わたしが最初に買った万年筆はパイロットのカクノだが、それよりも高いペンをたくさん持っているにも関わらず、たまにインクを入れることにしている。
ただ、と、思う。こうやって「手に馴染む」というのは、作られたばかりの完全な状態から壊れていっているだけなのではないか、ということを。万年筆のペンポイントは研ぎ終わった状態がもっともよい、という考えがある。使っているうちに歪みが生じるから、また磨いてもらうのだ。(わたしはそこまでまめに磨き直してもらっていないというか、そんな時間がないだけというか……)革製品のエイジングだって、劣化していっているだけと言えばそうだ。自分と共に変化していていくのは確かだ。変化の方向性が好ましい場合のみ、「手に馴染む」と言っているのであって、実態としては、小さく壊れていっているだけなのではないか、滅びが遠いだけでその道程を一緒に歩いているだけなのではないか、と、思う。
その道程を一緒に歩きたいと思えるもののみを所有していたいから、こうやって「手に馴染む」ものを求めてしまうのかもしれない。