ラーメンズ「銀河鉄道の夜のような夜」と(ディス)コミュニケーション

matsuri269
·

ディスコミュニケーションは、傍から見ればコメディである。本気でコミュニケーションをしようとしてすれ違っていればいるほど、当人たちがそれに気付いていないほど、笑える。その構造を用いたお笑いはラーメンズ以外にもいくらでもあるし、ラーメンズの『TEXT』以外にもたくさんある。

ここでは、『TEXT』の最後を飾る「銀河鉄道の夜のような夜」を題材にして、ディスコミュニケーションとコミュニケーションの話をしてみたい。

「銀河鉄道の夜のような夜」を取り上げるのは、「誰かとコミュニケーションを行いたいという祈り」と「コミュニケーションなんか不可能なんじゃないかという絶望」の間で揺れ動いている様が、美しいからだ。

『TEXT』は2007年に行われたラーメンズ第16回公演だ。ちなみにわたしは現地では見ていない、というかラーメンズを知ったのがその後だった。なお、公式Youtubeで全編配信されているため、興味があれば見てほしい。「銀河鉄道の夜のような夜」は単体でも楽しめるが、『TEXT』の最後にあってこそ輝く面が、ある。

以下ネタバレしかない考察未満の雑文。


「銀河鉄道の夜のような夜」は小林賢太郎演じる常磐と、片桐仁演じるその他すべての人物の物語である。金村じゃないのかって?もちろん、片桐にとって金村がメインの役どころなのだが、この物語は総じて「常磐とそれ以外」でストーリーが進む。

そして、常磐は常に、誰とも双方向のコミュニケーションが取れない。最初の活版印刷所のくだりの片桐は、常磐の空想上の存在だ。牛乳屋は電話が通じるが、話が通じない。母親は基本的に常磐の言葉のおうむ返しをするだけだ。唯一、金村だけが、常磐とコミュニケーションが取れているかのような会話をする。最初は。

誤字のない新聞とは白紙の新聞である

常磐は活版印刷所で活字を拾う仕事をしているが、給料はちっとも上がらない。なぜなら、似た文字を間違えてしまうからだ。この物語は、似た文字を間違えてしまった結果起こる誤字と「誤字のある不思議な文章」についてのくだりから始まる。たとえば、投票の『票』と『栗』を間違えてしまうと、「十万栗の差で当選確実となりました」という文章が発生してしまう。

だが、ここで考えてみてほしいのは、誤字があっても、文章の意味は伝わるということだ。選挙の文脈において、「十万栗の差で当選確実となりました」というのは、常識的に(あるいは語用論的にと言ってもいいのかもしれない)おかしい。だから、もしこの文章があったとしても、きっと誤字なんだろうな、と気付くことができる。(だから新聞に誤字があってもいいという話ではないのだが)意味を伝えたい、というのであれば、メディアとしては問題がないといえる。

常磐はおそらく誤字をなくしたいと考えているだろうが(給料が上がらないからだ)それは叶うことのない願望である。後半、列車に乗ったところで、常磐は「誤字のない新聞」を見つける。それは、真っ白な新聞である。小道具に余計な色をつけない、のはラーメンズのスタイルだからかもしれないのだが、まあ、普通に考えて、真っ白な新聞には、誤字がない。何も書いていないからだ。ここで、「間違いのないコミュニケーションが存在するとして、それはコミュニケーションをしないことだ」というのが、言えるのではないだろうか。

もっとも「言葉禁止条例が出たアジアの小国でクーデター」が起こったらしいのだがーー言葉なんかなくてもコミュニケーションは、できる。

牛乳屋は電話には出る

「はい、牛乳屋です」

「牛乳が届いていないんですけど」

「あー、どうもすいませんでした(ガチャ)」

常磐は、牛乳が届いていなかったから、牛乳屋に電話をする。常磐は、牛乳屋に謝罪ではなくて対応を求めている。しかし、牛乳屋は謝るだけで、何らかの具体的な対応をすることはない。クレームに対して謝罪するのは当然の行動ではある。しかし、クレームには通常、何らかのアクションを相手に起こしてほしいという含意が存在する。牛乳屋は、その言外の意味や含意を知ってか知らずか無視している。

言葉は通じている。意味もわかる。ただ、言外の意味が通じない。これもまた語用論的コメディといえるのだが、語用論の話をすると長くなるので簡潔にまとめる。常磐は「どうもすいませんでした」ではなくて「ではいつまでに届けます」であるとか「どうするか決めたら連絡をする」ことを求めている。なんなら、それを直接伝えても「はい」としか牛乳屋は答えてくれない。牛乳屋は、言葉には答えてくれるが、アクションをすることがない。

言葉の中には、アクションを求めるものがある。たとえば、「部屋の中暑いね」というのは、部屋の中の温度が高いことの報告ではなくて、冷房を入れたり窓を開けたりするなどのアクションを相手に求めるものである(ことが多い、多いが最近ではもっと直接的に言ったほうがいいのでは?という風潮もある、あるけどそういう意味で発する人もいる。言語って難しいね)常磐は、言語によるアクションが行われないから、牛乳屋に直接行くことになる。ここでは、「コミュニケーションが取れたとしても、望む結果が得られない」シチュエーションが描かれている。

お母さんの言うことに意味はあるのか

次の場面は、常磐とその母親の会話のシーンである。ここでは、片桐演じる「お母さん」が、常磐の言葉を基本的に繰り返している。エコー付きで。後ろを向いて発される言葉たちは、一見意味があまりないように思われる。しかし、常磐は言う。「……うん。何をにおわせているの?」そう、お母さんの言うことには何か含みがあるように見える。繰り返しているだけということは、新しい情報がないということなのに。

ここでは、「言語そのものが持つ意味以外によるコミュニケーション」が描かれている。たとえば、ジェームズ・ボンドの有名な名乗り、「ボンド、ジェームズ・ボンド」では、同じ意味合いのことを2回繰り返すことによって強調されている。このように、意味としては同じことでも繰り返すことによって、何らかの「意味」が生じてしまうことになる。この場面では、常磐の言葉の一部をお母さんが繰り返すことによって(しかもエコー付きで)、それが何なのかはわからないが、確かに「含み」があるように感じられるのだ。

銀河鉄道の夜のような夜は、銀河鉄道の夜ではない

常磐が乗っている列車に、金村も乗ってくる。同じコンポーネントに座った彼らは、会話をするが、そのうち、金村は自分がここに存在しないことに気がつく。

ただ、それだけの話だ。

一見会話が成立しているように見えるが、実は片方いなくても成立するのは、「同音異義の交錯」の逆だ(ご丁寧に、常磐と金村が別れたあとのSEまで一緒だ)ここに、双方向のコミュニケーションはない。なぜなら金村は存在しないのだから。存在はしないのだが、奇跡のように、馬券を渡すことはできるーーただ、その馬券は「かすりもしねえ!」それはまるで、彼らが(なんなら、常磐と、片桐が演じてきたすべての人たちが)ずっとすれ違っていたことを示すかのようだ。金村が常磐の頭を叩いたが、常磐が頭を叩かれたように感じたのも、偶然なのかもしれない。

コミュニケーションのようなものが見えていたが、コミュニケーションではなかった、というのが、最後のくだりである。そして、このコントはーー『TEXT』全体は、列車が走り続けることを示唆する汽笛の音で幕を下ろす。常磐ひとりを残して。

しかし、それでも、という「祈り」を感じてしまうのも、この物語である。常磐と金村のしりとり(金村が存在しなくても成り立つのだが)の後に、このようなやりとりが挟まれる。

「ひとりでやってろ」

「ひとりでやってもつまんないよ」

もちろん、「ひとりでやってもつまんないよ」は金村の言葉ではなくて、「ひとりでしりとりをやっていたこと」に対するコメントである。なのに、会話が成立しているように見える。再三言っているように、ここに金村は「いない」。でも、舞台上には「いる」。だから「ひとりでやってもつまんない」のは、舞台であり、その舞台上で発生するコミュニケーションであるというのは、穿ちすぎなのだろうか。

まとめ:透明人間はいない、でも

「銀河鉄道の夜のような夜」は、『TEXT』の他のコントとのつながりがある。その中でも重要な概念が「不透明な会話」の中に隠されている。「おい、常磐、何だよ。透明人間扱いするなよ」と金村が言うように、金村は「透明人間」である。そしてその透明人間の存在については、「不透明な会話」の中で以下のように述べられている。

「もし透明人間がいなかったとしても、俺の人生には何の影響もない」

(ついでに、その前の透明人間は「何もくれない」というのが、金村の馬券が外れることへのパスになっている)そう、透明人間はいてもいなくても、人生に影響がないのだ。だっていないから。

確かに金村が常磐に渡した馬券は外れた。意味のないものだ。だけれども、じゃあ、金村が常磐に馬券を渡したことには何の「意味もなかった」のだろうか。だが、「銀河鉄道の夜のような夜」には「意味」だけではないコミュニケーションの可能性/不可能性が描かれている。そこから、もしかしたら。

もしかしたら、常磐がその馬券に、なんらかの「意味」を持たせる日が来るのではないだろうか、そうしたら、彼らの間にコミュニケーションがあったと言えるのではないだろうか、と、言うのは、言い過ぎなのかもしれないが、だけれども、コミュニケーションとディスコミュニケーションの間で揺れ動く物語の結末の向こうを、祈りたい。