このテキストは『大長編 タローマン 万博大爆発』の重大なネタバレを含みます。未見の方はご注意ください。
また、『でたらめ!タローマン大万博』の前に書かれているので、イベント初出の情報があった場合、なんらかの齟齬がある可能性があります。
タローマンの映画、おもしろかったですよね。わたしは特にオープニングがかかって黒い帯で殴るところでぶち上がった。アスペクト比芸、大好き!(類例を出すとそれもネタバレになる!)
なんですけど最後の最後に出てきた(最初にもいたけど)サカナクション山口一郎(敬称略)の解説パートでめちゃくちゃになり、タローマン世界の山口一郎のことしか考えられなくなり、現在に至る。
タローマン世界における山口一郎とは
今までのテレビ放送では、5分程度の「本編」の後に2分程度の「タローマンと私」パートがあり、山口一郎はそこに出演していた。
山口一郎は、その回に引用された岡本太郎作品、ことばの解説や(彼が岡本太郎のファンであるのは現実世界の事実でもある)、タローマンとの「思い出」を語る。当然、タローマンは70年代に放送された作品ではないので、彼の語る「再放送世代」としてのタローマンとの思い出は嘘である。
山口一郎は、フィクションであるタローマンの「実在性」を高めるためのギミックともいえる。モキュメンタリーじみたそのパートは、タローマンが制作された当初の目的である「岡本太郎の作品を伝える」ことのみならず、「タローマンが70年代に『実在』した」という質感を与えることになる。
ここまでは飲み込みやすいというか、普通に見ていればわかることである。
しかし今回の映画で、山口一郎には大きな変化があった。インターネットでは「怖い」と言われるほどに。
『大長編タローマン万博大爆発』における山口一郎
この映画では、最初と最後に山口一郎が登場する。ここでは、最後に出てきた山口一郎について考えたい。
エンドロールが終わった後、山口一郎は渋谷駅の『明日の神話』の前で赤青メガネを外し、いつものように語り始める。岡本太郎についての言及は真なのだが、「オークションで落としたタローマンブレス」になると話が変わってくる。タローマンは、タローマンブレスで変身するものではない。少なくとも、我々が今まで見ていた映画の中では。
そして、山口一郎は画面左奥に歩いて消えていくーー後頭部にアンテナが刺さった状態で。
ここで検討すべきは2点である。
山口一郎の見た映画が我々が見た映画と異なっていること
山口一郎の後頭部にアンテナが刺さっていたこと
「何も特定できなくなった」ということ
第一の点について、それが何だったかを特定することはできない。様々な想像は可能である。パンフレットに「タローマンブレス」と「クリマー」が載っていたが、それらを見たとも断言できないのだ。(この断言できなさも、これからの話に重要になる)
少なくとも、山口一郎は我々とは違う映画を見た。おそらくは、最後まで赤青メガネが必要な映画を。それ以上のことを言うことはできない。
第二の点について、あのアンテナが何だったのか、明確な説明はない。タローマンの各種造形を担当した「いぬい はじめ」さんのポストにも、情報はない。
作中情報から、山口一郎がロボットである可能性を導き出すことはできる。しかし、タローマンは「フィクション」だ。それを安易に「作外の」読解に結び付けてよいのだろうか。
ただひとつ言えることは、我々の生きる現実において、アンテナが刺さっている人はいないということだ。
そう、タローマンの山口一郎はフィクションの存在なのである。
当然と言えばそうなのだが(タローマンのメイン視聴者層はあれに台本があると知っているし、子供たちもいずれ知るだろう)これが映画内で明確に示されたことに意味がある。
視聴者が違和感を覚えるであろう上記の2点について、明確な解答をすることはできない。しかし、明確な解答ができないことから導き出せることがある。
山口一郎は「信頼できない証言者」になる
ここで重要なのは、山口一郎がタローマンについて語ることの「真偽」がわからなくなってしまったということだ。本編では、山口一郎がタローマンについて「思い出」を語っていたところで、それは「嘘」でありながらも作中では「真実」だったのだろうと思うことができた。だが、「この山口一郎」はフィクションである。フィクションの存在が何かに言及している時、作中での真偽と実際の現実における真偽を読み取ることができる。どれだけ荒唐無稽な世界でも、その世界では「真」であることも、ある。では、山口一郎についてはどうだろうか。
今までのタローマンの山口一郎は、フィクションにおいて真とみなされること、かつ、現実において偽であることを述べていた。観客は、「現実に存在している山口一郎がこれを言っている」という嘘を共有していた。それによって、現実世界に侵食する「嘘」が可能になった。というか、そうでなければモキュメンタリーは成立しない。
(各種展示における「山口一郎コレクション」も、その一環である。この世界の山口一郎があのコレクションを持っているわけではない。それを皆知っている。知っていてなお、実在感を覚える)
映画タローマンの山口一郎は、どこかの世界のフィクション存在であることが明確になってしまった。だから、タローマンについてもっともらしいことを言っていても、「その世界ではそうだったのだろう」になってしまう。現実世界とは切り離された嘘になってしまったのだ。
タローマンの解説として、山口一郎がこれから何を言っても、「その世界ではそうだった」になるのならば、タローマンの「実在性」は下がってしまう。ではなぜ、このようなことをしたのだろうか?
それに対するアンサーは製作陣から出されているわけではないが、推測することはできるため、このテキストでは、二つの可能性を提示する。
タローマンは「実在」する
前述の通り、本編の山口一郎はタローマンの「実在性」を増すギミックであった。しかし、特番が製作され、グリーティングイベントや舞台挨拶もあり、今回映画にまでなったタローマンというコンテンツは、十二分に「実在」する。もちろん、70年代に作られたと言うのは嘘なのだが、それ以外のことは「ほんとう」である。実在性ギミックとしての山口一郎がいなくても、現実に存在するフィクションとしてのタローマンは「在る」のだ。
タローマンを終わらせる
この映画から先、タローマンの映像コンテンツが発表されるかは未定である。パンフレットを読むに、この映画は岡本太郎の「ことば」を絞り尽くすくらいには使っている。今後岡本太郎の「作品」と「ことば」が増えない以上、新作コンテンツとして続けるのは困難だろう。
そうなると、この映画には「タローマンを終わらせる」意図があったのかもしれない。
そこで、今まで「現実」にいたことになっていた山口一郎パートを「フィクション」にした。これまで持っていた機能を失わせた。山口一郎が喋ったことをこれ以上「真実」にしないために。
まとめ:山口一郎は「真実」を「見ている」
このテキストでは、タローマンの山口一郎はタローマンの実在性ギミックとして使われていたが、映画では完全に「フィクションの存在」になったことと、それによって山口一郎の発言の「リアリティ」が失われたことを述べた。リアリティが失われたことによって、もはや山口一郎はタローマンの「証言者」ではありえない。別の世界の住人となるのだ。
ただ、あの山口一郎が「見た」タローマンも、また彼にとっては真実である。最後に彼が引用した岡本太郎のことばのように。我々の見たタローマンとは異なっているだけで、彼のタローマンもまた、「実在」する。我々には想像しかできないそれが。
ぼくはきみの心のなかに実在している。疑う必要はいっさいないさ。そうだろ。
え?山口一郎はブラックタローマンのファン?そしてブラックタローマンの創造主は現実に存在する山口一郎?そういうメタなところまで踏み込むのは……また別の機会に……