2月14日はハッピージェットマンデイである。いや、32年前に鳥人戦隊ジェットマンの最終回が放送された日をわたしが勝手にそう呼んでいるだけなんですけど……ハッピージェットマンデイなのでジェットマンのはなしをします。ちなみにまったくリアタイではないです。2年半くらい前に見ました。意外と経ってるな。
鳥人戦隊ジェットマンとは何か、と言われるとかなり困ってしまう。恋のはなしであり、愛のはなしであり、友情のはなしであり、そして、ひとりの傷ついた人間が、仲間とともにヒーローとして生まれ変わるおはなしである。そう言うと、かなり普通のはなしなだなあという感じがするのだが、めちゃくちゃ味付けが濃いため、ジェットマンだな……としか言いようのない仕上がりになっている。
あと最終回が有名で、いっときバラエティ番組でネタにされまくっていたし、なんなら2年前の戦隊の機界戦隊ゼンカイジャーが最終回を思いっきりパロディして賛否両論を呼んでいた。正直なところ、ある程度東映特撮を見ていたら作品もしくはファンコミュニティのどこかでネタバレに当たる可能性が高い。わたしは詳しく知らないが、最終回当時は他ジャンルでのパロディもものすごく流行ったらしい。
だが、ジェットマンは最終回だけのはなしではない。
わたしが好きなジェットマン評に、ユリイカ平成仮面ライダー特集の川上弘美のコメントがある(ジェットマンのメインライターである井上敏樹は平成仮面ライダーも書いており、井上敏樹に対するエッセイの一環としてジェットマンへの言及があった)以下に該当部分を引用する。
「戦う。その合間に、三角関係がある。戦う。その合間にショッピングがある。戦う。その合間に戦士たちの慰安旅行がある。戦う。その合間に死んだ恋人の墓参りに行く。戦う。その合間に基地で冗談を言いあう。日常と非日常が異様な様子で混在していた」
そう、ジェットマンは「日常」と「非日常」の中に生きる「人間」の物語なのだ。たしかに、物語の主軸となるメインライター井上敏樹執筆回とそれ以外のライターの回にはかなりのテンションの差がある。前者で恋愛感情に端を発するオープンエンド人間関係殴り合いをやっているのに後者ではわりと普通に仲間をやっていることがある。正直なところキャラクターがちょっと違うような気もする。でもどちらもが必要なのだ。日常だけでは物語にならないし、非日常だけでは生きてはいけないのだから。彼ら彼女らはジェットマンという非日常を通じて絆を築き、やがて日常に帰っていくことになる。平和な日常に。
ーーーここから最終回含むネタバレーーー
結城凱がなぜ死ななければならなかったのかについて、もう散々語り尽くされていると思うし、わたしも散々考えたのだが、ここにまとめておく。
鳥人戦隊ジェットマンは、天堂竜の物語である。結城凱ではなくて。
凱のキャラクターがものすごく立っている上に竜と比べて好感を持ちやすいキャラクターであるにも関わらず、これは天堂竜の物語である。竜が、「世界を守る戦士」の物語でなくて、モラトリアムを経て、自分の人生を生きることを決意するための物語である。(「物語」でなくて「人生」をやる、ということの象徴として「結婚」を持ってくるのが古いと言われたらそれは30年以上前のはなしだからな……というほかない)
「全人類の……いや、俺たちの未来がかかってるんだ」
逆ではないのだ。全人類よりも俺たちの未来、なのだ。というか、自分たちの未来と全人類の未来が等価になる瞬間があり、それが最終戦だ。最終戦の竜は、凱に自分の命運を託す、そうできるだけの信頼がこれまでに示されており、目的は達成され、レッドホークは墜落し、天堂竜の姿が現れる。わたしはこれを天堂竜の擬似的な死と再生と読んでいる。ここで一回物語を生きる戦士としての竜は死んで、人生を生きる人間として生まれ変わる。
そしてその「死」を決定的にするのが、結城凱だ。
わたしがジェットマンを青春の物語として読むのは、青春が「いつか終わるもの」であり、そしてその終わりが凱の死によってもたらされたから、というのが大きい。むしろ、青春だから終わったのではなくて、終わったから青春だった、そう読んでいるところがある。凱がなぜ死ななければならなかったのか?それは竜がこれから生きていくためだ。青春のあとの人生を、生きていくためだ。きらめきのあとの日常を、歩んでいくためだ。そのためには、刹那を生きる、恋の季節の、青春のメタファーは死なねばならない。
結城凱は永遠のきらめきの中にいる。
生活に凱の居場所はなかったのだろう。(番組の尺が短いという制約のせいもあって)凱の生活描写は極めて少ない。それも相まって、まるで自由気ままな野良猫のような、凱のイメージが作られる。最終回Bパートは「3年後」ではじまる。その3年間、なんらかの「生活」はしていたのだろうが、もしかしたらたまにジェットマンメンバーで集まったりもしていたのかもしれないが、語られることはない。語られはじめた瞬間に彼の物語は終わる。
もしジェットマンになっていなければひったくりを追いかけるようなことはしなかったのかもしれないがーー彼の運命はジェットマンにあり、最高の友人の最高の結婚式を守るために、終わる。あまりにも美しいのでなにも言うことはない。
自分より大切なもののために死ぬのが幸福なのかはひとによるだろうが、少なくとも凱は満足して死んだだろう。これがわかるからジェットマンを見た人間(大きな主語)はこのエンディングを噛み続けることになってしまう。
ジェットマンって簡単には「共感」しにくいアクの強いキャラクターがメインに立てられているけれども、結城凱が最後に見たあの青空は、「みんな」も見たでしょう、見えたでしょう、というのがきれいだなと思っている。
天堂竜の物語は終わったので(他のメンバーの物語も終わったので)そしてその物語のあとの日常を守るために、結城凱は戦っている、というのが、ゴーカイジャージェットマン回における解釈であろう。竜たちはあの世界のどこかで平和に暮らしており(レジェンド大戦のことは一旦忘れよう)そして「青春」という「物語」を大切に思っている、その青春の象徴たる結城凱はまだそこにいる、という、おはなし。
最後に自作の短歌と青空に透かすためのアクリルキーホルダーを掲載してこのまとまりのない記事を終える。「恋をしてみたかった」のは、誰なのだろうか。
イカロスが落ちると知ってなお飛んだみたいな恋をしてみたかった/祭ことこ