ここで書きたいと思っていること
・ここ1、2年、内省が極端に減っている(具体的には、仲間内のdiscordにさえ、考えていることを何も書かなくなった。自分用のメモにも、特に何も書いていない、つまり何も考えていない)
・「考え事」の時間を意識的にとるようになった。今こういう問題があって、こういう風にしたくて、云々。
・突発的に数週間忙しい、は今まで何度もあったけど、今年に入ってから慢性的に忙しいというか、忙しさの水準が一段階あがったような感覚がある。つねにマラソン中のような感じになっていて、それで思考も途切れ途切れになっている。人が散歩をする理由が、というか「散歩」を行為のメニューとして日常に組み込もうとする理由がよくわかった。
・引っ越しのときに、10年前ぐらいの手書きノートが何冊か出てきた。当時はとにかく脳内のすべてをノートに吐き出すつもりでいろいろ書いていた。今見ると、その内容の抽象性に驚く(やっていたのが人文学だから当たり前ではある)。当時実際に文章という形で外に出した内容と、これらのノートに書いてあることは結構違う。ノートに書いてあるのは純然たる思考で、当時はそれをそのまま外に出すことはできないと思っていた。今読むと、案外自分の思考の核がそこにそのまま表れているように感じられる。無責任な人であれば、「別にそのまま出せばいいじゃん」と言うような気もする。
・ノートには、単なる抽象的な思弁とは別に、「こういうことができたらいいのにな」というある種のキャリア願望のようなものも書いてあった。一部は実現しているし、一部は実現していない。それはどうでもいいけど、今の自分はどちらかというと、こうした思弁に時間を使えていた日々を取り戻したいと考えている。これはただ「考え事をする時間が欲しい」というのともちょっと違う。今ただ考え事をする時間をもらっても、別にたいしたことは考えられない。そうではなく、なんというか、このノートでやっているような感じで、世界のすべてについて考える時間が欲しいのだ。
・世界のすべてについて考える時間を取り戻すにはどうしたらいいか。そのためにはまず、世界のすべてについて考えるとは何なのかを思い出す必要がある。その意味で、ノートが発掘されたのはよかった。その快楽を思い出して、それを今の自分にできる仕方で再現できたら、慢性的な退屈も多少は和らぐような気がしている。
・慢性的な退屈、(自己)不信、怠惰が積み重なり、この10年ほど考えることから引退していた。10年前の数年間で一気に育った思考を、つどさまざまな形で切り出すようにしてこの10年間を乗り切ってきた。何かを形にする器用さについては、ようやく満足できる水準が見えてきた気がするので、もう一度考え事のほうに向かっていきたい、というのがここ最近の気持ち。