さらさらと風が吹く。家にいるのがもったいないようなお天気の日って、家でごろごろするにも実は最高。今日は冊子の校正業務(いよいよここまで来ました)と思っていたが、昨日のAJICOの余韻もあり、この満たされたエネルギーをまだ胸いっぱいに感じていたいからちゃんとオフの日曜日にする。
ベランダでブン(猫)が気持ちよさそうに寝そべっている。目をつぶって全身で地球のいいところを味わっている。動物は今を感じるプロだ。言葉も時間の概念も無い。生きていること自体が作品みたいだ。
以前は生きる意義として、ずっと残るような作品をひとつでも残せたらいいと思ってた(なんとなく芸術家の到達点はそういうものが美しいという刷り込み)。今は何を残そうが死んだら全部終わりだと思うようになった。なぜならこの身体を使ってこの世界で感じられることは生きているあいだが全てだから。
でも先だっての雨の日。玄関でビニール傘をたたみながらどこかでついてきた桜の花びらに気が付いて、そこにくるりちゃん(死んだ猫)がいるとなぜか私は確信した。淡くて上品で、そっと寄り添うところもくるりちゃんそのものだと。
糸電話のように、途切れながらも感じ続けるおもかげ。
くるりちゃんは宇宙から消えた。だけどこうして私の中にだけ、まだいる。私が死んだら私は消えるけれど、もし私を誰かが思い出してくれたらその人の心のどこかに私がいる。きっとそこには少しだけくるりちゃんも溶けている。
だとしたら少しでもいい時間を過ごし、いい欠片を残すことに人生を捧げたらいい。魂を信じるのは生きている方の役目だ。それがある限りみんな、消えないでそばにいる。