桜と真鶴

松下とも子
·

午前中、仕事のミーティング。同じ区内の病院で午後から肩(そう、四十肩をこじらせたのです)のリハビリがある。桜の季節を見越してフィルムカメラを持ってきた。時間まで散策することにする。

住宅街や小さな公園に一本だけあるような桜が好き。この季節、バスや電車の中からそんなロケーションを見つけると、おお、こんなところにも、と嬉しくなる。コンビニでコーヒーでも買って、そんな無名の場所で一息つくのが私の好きなお花見スタイル。

そんなふうに春に暴かれた桜をぽつぽつ、小鳥がパン屑でおびき寄せられるようにたどっていくと大きな公園に出た。ベンチに座って図書館で借りてきた「真鶴」を開く。曇天が似合いそうな話だった。だんだん、読んでいると鉛色のお化けが現れた。この作品の魂の色。文章って、文字の羅列、ただの記号なのにすごいものだ。晴天と桜の木の下で読むのはまったくもって似つかわしくない。

目の前で撮影会が始まった。わやわやと5人くらい、小さい人たちがランドセルを背負って、入学の記念だろう。親たちはあの手この手で様々なポーズを取らせている。

まっさらなランドセルはベージュだったり乳白色だったり上品で、きっと老舗の鞄店とデザイナーズのコラボ品だろう。子どもたちの装いはリバティの生地を使ったワンピースや、さりげないタックの入った白シャツにバルーンパンツ、平尾か薬院あたりのショップ店員の子ども版みたいだ。

裕福なんだな。つまんないの。そう思ってしまった自分を恥じ入り、そこから立ち去ることにした。桜の季節は桜を見て桜を撮ればいいのだ。

桜ってどうしても「撮らされてしまう」被写体である。どこかで見たお手本のようなカットを毎年撮り重ね、結局、本当に心が動いた時だけシャッターを押せばいいとやっと思えるようになった。

ちびりちびりと大切なフィルムを使って撮影する。35mmフィルムだが今や中版カメラを使う時のように枚数には慎重になる。写真人生も長くなり、ある程度勘所を鍛えてきたのは良かったが本当は好きなだけ気にせずに撮りたい。

それにしても桜を見る人は誰もしかめっ面とかしていないのがいい。ヘルパーさんに車いすを押されるおばあちゃんが目を細める顔がかわいかった。

公園を一周したところでちょうど病院へのバスが来たので乗車。久しぶりのリハビリで身体がほぐれたのか、帰りのバスでも「真鶴」を開いたがとろりとした鉛色と眠気に侵食されて読むことができなかった。

@matsutomo
福岡で写真と文筆をやってます。 ★ほとりスタジオ www.hotori-std.com ★第54回九州芸術祭文学賞 佳作受賞kyubunkyo.jp/archives/1158 ©2024松下とも子