痛みの経験値

皐月まう
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午前休を取ってくれた恋人の車に揺られ、憂鬱な気持ちで朝の道を眺めている。通勤通学中の自転車を追い越しながら、彼らの健やかさがふと羨ましくなる。

低用量ピルのストックにはまだ余裕があったけれど、私には会社を休んででも婦人科に行かなければならない理由があった。

 

今は毎日飲み続ける薬の休薬期間中で、この7日間のうちに消退出血と呼ばれる生理みたいなものが来るのだけれど、今回の薬は経血の量を極端に減らすことができるものだったのでたったの2日で血は出なくなっていた。

なのに出血がほぼ終わった翌日、猛烈な腹痛に襲われた。出すものが何もないのに、子宮が激しく収縮する。運悪くその日は祝日で、私は恋人とデパートに出かけていた。春物の新しい服を買い、たこ風船のたこ焼きを食べようと足取り軽く歩いていたところだった。あまりもの痛さにトイレで気が遠くなってきて、いけない迷走神経反射だ、と悟ってからは必死に意識を保とうとした。朦朧とする意識の中でなんとか鎮痛薬を口に運び、車に戻ってしばらく休むと少しずつ痛みが引いていった。

ところが深夜、再び下腹部にあの痛みが訪れた。今度はさらにひどかった。痛み止めを飲んでもしばらく収まらず、ベッドの上で身体を丸めたり伸ばしたり寝返りを打ったりしながら痛みに耐えるしかなかった。のたうち回る、の言葉の意味を全身で理解する。

呻き続ける私のせいで眠れなくなってしまった恋人は、何度も救急車を呼ぼうとしたり、医療センターに連絡してみたりしていた。なのになぜだかこれしきのことで、という思いが強くて、彼が救急車を呼ぶのだけは全力で阻止した。そのうちに激痛は治まっていったので、鈍い痛みを感じながらも眠りにつくことができた。

痛い痛いという文字ばかりが並んだけれど、申し訳ないことにもう少し続く。

翌日、起きるとまだお腹が痛むので、完全に弱り果てた私は会社を休んだ。コロナ以外で仕事を休んだのは初めてのことである。恋人も午前中休んで、病院に連れて行ってくれるという。ありがたいやら申し訳ないやらで、私はひよひよと涙をちょちょ切らせていた。

 

低用量ピルを飲めば、本来ならPMS(月経前症候群)や生理痛は以前より良くなるはずだ。なのに昨日の痛みは、普通に生理が来ていた頃の何倍もひどかった。しかも、検査は2週間前、新たな薬をもらう際にしたばかりだった。たった2週間で私の身体はおかしくなってしまったのだろうか。子宮筋腫はあるけれど悪さをするものではないし、むしろピルを飲むことは筋腫にもいいと聞く。思い当たる節が何もないことが余計に不安だった。

歩くだけで痛むお腹を労りながら、ふらりふらりと待合室の椅子に腰掛ける。平日の朝だというのに、中にはすでに大勢の患者がいた。私が呼ばれたのはそれから1時間以上も経ってからだった。

出かける前、恋人が私の症状をまとめたメモを書いてくれていた。待ち時間中そのメモを時折眺め、お守りみたいに握りしめて診察室へ向かったのに、院長先生は相変わらずさらりとしていた。この男性医師は必要なことを端的に話すものすごく効率のいい先生なので、普段は婦人科向きのいい先生だなと思っているのだけれど、今回もそんな感じでサクッと問診をされたので拍子抜けした。

いついつにこのくらいの痛みがあって、夜中は2時間くらいこんな痛みになって、みたいに順序だてて話すつもりだったのに、まあ、そんなこともありますよくらいのノリで終わらされた。それでどうします? この薬続けます? それか前のに戻す? あんまりころころ変えるのもよくないし、前の薬を変えたのも不正出血が気になったからだもんね──と、気がつけば私の症状の話は通り過ぎていた。

でも、考えてみれば先生の対応は正しいのだ。血液検査も異常なし、子宮頸がん検診もしたばかり、その上で症状も問題ないのなら、この先どうするかにシフトするだけ。何があったか、にいつまでも焦点を置いていても意味がないのだ。この先生はどこまでも効率がよかった。私は拍子抜けの余韻が抜けないままさっさと診察室を出され、あの待ち時間はなんだったんだと思うくらいさくさくと会計を済ませて外に出た。

車に戻っても私は変わらずぽかんとしていて、車内で寝て待ってくれていた恋人も終始冷静にさらっとしていたので、なんだかずっと拍子が抜けていた。簡単に言えば、杞憂だったのかもしれない。

 

別に心配してほしいわけでも共感してもらいたいわけでもなかったけれど、なんというか、私はまだまだ世の中のことを知らないんだろうなという漠然とした無知を突きつけられた気分だ。あの痛みは生理痛にしては最上級だったと言っても差し支えない(ことにしたい)けれど、出産の痛みに比べれば倒れてる場合じゃないだろうし、私は腹を切るどころか入院したことだって一度もないから、きっと相対的に痛みの経験値が低いだけなのだ。

いや、それでも痛いもんは痛いし、辛いもんは辛い。現に痛みに耐え抜いた副産物として、私はおそらくインナーマッスルの筋肉痛を手に入れた。下腹部から胸にかけて、身体の前半分が広範囲で痛む。歩くたびに全身に鈍痛が響き渡る。表の筋肉痛とも違うし内臓が痛むわけでもないのにどちらでもあるような気もして、なんだかものすごく不快だ。

いっそのこと、一日中眠って何も感じずにいたい。だけど今日も生きるしかないし、仕事には行くしかないのだ。だからせめて基礎代謝が上がって余計な脂肪が落ちてくれやしないかと、望み薄な願望を抱えている。

@maumau_5
わたしの庭です note.com/maumau_5