十二月十四日(日)

mayo_fujita
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公開:2025/12/14

 パーシヴァル・エヴェレットの『ジェイムズ』を読んだ。前から気になっていた作品だ。先月読んだ『ペネロピアド』やル=グウィンの『ラウィーニア』と同じ読み替え小説になる。『ペネロピアド』と『ラウィーニア』は主人公の妻を主人公にした作品だが、『ジェイムズ』はマーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』の脇役、奴隷のジムが主人公だ。二人の妻たちが元の作品内でほぼ存在感がないのに対して、ジムは陰の主人公のような存在だ。同じ読み替えでもずいぶん違うアプローチになるだろうと思った。また、個人的にハック・フィンはとても好きな本なので、ジムとハックの関係性が原典と大幅に違っていたら嫌だなと思い、読むのを躊躇っていた。

 心配は杞憂だったが。ジェイムズとハックの関係は原典を踏まえたものになっていた。最初のうちは原典で書かれた話をジェイムズ側から見て物語が進む。原典のジェイムズは白人とは違う黒人英語を話すが、この本では普通の英語を話す。また、原典では聡明ながら黒人特有の迷信に囚われたり、子どもっぽい妄想癖があったりするのだが、この本では白人に怪しまれないように演技をしているということになる。白人の前で演技をする、アホっぽくふるまうというのは現代の男女関係に置き換えてもよくわかる。もちろん、現代の日本人女性は奴隷ではないし、演技などしない道を選ぶこともできる。私はそうだ。でも、少なくとも私が若い頃は男性とうまくやっていこうとすると演技が必要だった。奴隷制度と一緒にするなと言われるかもしれないが、相手が望むステロタイプを演じるという意味ではどちらも変わらない。

 途中から話は原典を逸脱する。私はハック・フィンの物語が好きで何度も読んだが最後は「ちょっとなあ」と思ってしまう。そんな風に安易に逃げるしか解決法がなかったのかもしれないがそれにしても。南北戦争後に書かれたのだから、別の結末でもよかったのではと思う。『ジェイムズ』はその結末を変える。厳しく、ある意味ジェイムズに対する見方の変わる物語だ。ハック・フィンのお気楽なエンディングが少しなつかしくなるが、これがジェイムズの選んだ道なのだと感じる。一人の人として生きるためにはこうするしかなかったのだろう。

 厳しい道を歩まなければならないのはハックも同じだ。原典でもハックは苦悩にのたうち回る。彼の苦悩は、例えば清教徒やカトリックの教えに背いて自慰をしたと悩む少年たちの悩み同様今から見ると馬鹿げた悩みなのだけど、ハックが本気で悩み結論を出す様子に心を打たれる(だから、安易な結末がなおさら残念に思えるのだ)。この本のハックも別の問題に悩むのだろう。

海外文学100冊マラソン 2/100

 

@mayo_fujita
読書日記を書いています。小説メインで色々読みます。古い小説と海外文学、ZINEや同人誌など。