畠山丑雄『叫び』を読んだ。新潮12月号収録。先に読んだ紹介文で大阪府茨木市が舞台というのは知っていた。茨木市といえば、私の郷里の隣接自治体だ。淀川を挟むのでなじみがあるというほどではないが、なぜかスイミングスクールに通ったこともある(なぜ川を渡って通っていたのか不明)。……と思っていたのだが、読みながらwiki等で調べると、何と隣接していなかった。淀川沿いは摂津市なのか…。確か本田圭佑の出身地だったか。こんなところにあるとは知らなかった。茨木に関しても、銅鐸の鋳型が出土している話から戦前はケシの産地だったという話まで全部初耳だった。郷土史にはそれなりに詳しいつもりなのにこの体たらく。
小説に歴史的な話が登場するだけに、個人がある歴史と出会うのは万に一つの僥倖(または奇跡または運命)なのだと感じた。
最初のうちは銅鐸や主人公が出会う女性、それに生活保護を受給しながら銅鐸を作り音を響かせる先生の話として読み進めた。不器用な主人公、サバサバとしているようで恋に踏み出せない娘(単に主人公が彼女を理解できていないだけという可能性もある)、聡明で社会に対しても一家言持ちながら敢えて働かない道を選んでいるように思える先生、彼らの関係性はどうなるのだろうと思ったが、そういう話ではなかった。
主人公は万博会場へ行く。そこで銅鐸演奏の講師をしていた先生が話すのを聞くのだが、それ以降の物語が非常にエモーショナルだった。
その叫びはその空間に閉じ込められて、どこにもいけんようになる。やがて当の叫んだもんがおらんようになる。いやそんなやつは最初からおらんかったんかもしれん。せやけどその叫び自体が、長いこと経ってから漏れてしまうことがある。(中略)漏れ出した叫びに晒されるかどうかは、叫びが響きとなって生涯を貫くかは、どこまでいっても偶然でしかない。(中略)誰もがどこかで、狂人を、自らの微かな狂いの引き受け手と捉えている。
先生のこの言葉通りに主人公は戦時中にケシを植え続けた川又青年の叫びを取り込んで彼と会話し、ついには彼の望みが主人公の望みとなる。人によってはチンプンカンプンの話かもしれないが、私は大学で日本史を学んでいたのでそうした感覚はわかる。過去の声を聞くこと。私にとっては短い間の手すさびに過ぎなかったが、歴史を本気で研究する人には当然のように備わる感覚だろう。できればもう少し長い話で読みたかったが、今も答えの出ていない問題にのぞむ挑戦的な小説だったと思う。 #純文学100冊マラソン 2/100
*関係ないが出雲地方の博物館では銅鐸を叩けるらしい。夫が感動していたが、過去の声を聞いたのか?