星々の船をわたり、海を泳いでいた。
人間と呼ばれていた頃の記憶はもう殆どなくなっていた。もがくように手足を動かすと、明滅する泡のカーテンがけたたましく揺れ、数秒後には何も無かったかのように鎮まりかえった。その繰り返しだ。目で確認できる範囲のいっさいは死に絶えていて、ただ光があり、ただ自分があった。
そのような海をただひたすらに進んでいた。手足の感覚は既になく、思考もときどき霞むようにおぼつかなかった。
「おお、さかなじゃないか」 と蛙が言った。「久しぶり。まだ海にいたんだ」
「君こそ」と僕はそっけなく答えた。「とっくにあちら側へ行ったと思ったけど」
「いじわる言うなよ」と蛙がむくれてみせた。
「結局、何度だって目が覚めるんだ。目が覚めてしまったのなら、この海を泳がなくちゃならない。そうだろ?きみだって同じ状況のはずだ」
「ああ」と僕は言った。「そうだ。目が覚める限り、この海を泳がなくてはならない」
この海にはいつしか夜のとばりが落ちるようになり、さかなたちは眠らなくてはならなくなった。何世紀も前のことだ。瞼は涙をもたらし、夢と現実の境目があらわれた。
海に生きる命はみな、眠るたび夢に大切なものを置いていく。家族、仕事、お金、秘密、信念。生きていくために必要なすべては海に持って入ることができないからだ。
しかし、そのことを知っているのはどうやら "さかな" だけのようだった。周囲の生き物はみんな当たり前のように大切なものを夢へ預け、また疑うことなく夢へと帰っていくのだった。さかなにはそのことが恐ろしかった。
「暗くなってきたな」
うっすらと水面に幕が下ろされる。海が眠るのだ。
「きみはいつもどこで眠るんだい?」と蛙が聞いた。
「分からないな」とさかなは答えた。
相変わらずの秘密主義だ、と蛙が笑った。しかしさかなは本当に知らないのだ。いったい自分はいつごろ眠り、目覚め、どんな夢をみているのだろう。いつも自分は気づくと光の海にいて、どうしてか少しだけ寂しいのだ。
「おやすみ」と蛙が言った。
「よい夢を」とさかなは答えた。