喜怒哀楽の中で、"怒"だけがあからさまに別格の感情だと感じる。
そもそも、我々は腹を立てているときに自分をコントロールすることができない。成熟した大人はそれができるものとされているが、それは「結果的に怒りが露見せずに済んだ」だけあって、理屈や気分転換で怒りそのものが消えたわけではない。アンガーコントロールなんてものは理想論であり、いわば詭弁である。
ただ、後から振り返ってみると、怒りの正体が寂しさだったり虚しさだったりすることはよくあっただろうと思う。パートナーとの喧嘩、老人が持つ怒り、見知らぬインフルエンサーへの誹謗中傷。
しかし、そうだとしても、そのことを怒っている最中に思い出すのは不可能に近いと思う。なぜなら怒りは感情機能の最も手前で処理されるからである。どんなに複雑に絡み合った感情が背景にあろうとも、怒りに対応す機能というものがそもそも人間には存在しない。「これはこういう怒りである」と思える時点で、既にそれは怒りでは無くなっているのだ。
𓈒𓏸
わたしがつい腹を立ててしまうのは「損失」を自覚したときだ。金銭的損失、時間的損失、感情的損失。どれをとってもはらわたの煮えくり返る思いがするが、とにかく無駄と名のつく全てが嫌いで耐えられない。自分が原因で損をしたのであれば熾烈な後悔だけで済むのだが、他人にそれを「させられた」と思うと我慢ならない。寝れば大抵のことは忘れてしまう性格だが、他人からすれば狭量としか思えないことで腹を立てていることはよくある。
(2024.04.15へ続く)