怒りとは何によってもたらされるのか?
規則である。人はそれぞれ独自の規則を持っていて、それによって怒りがもたらされているのだ。
先の例で言えば、わたしはなるべく自分にとって損失がないように動いている。つまり、そういったルールを自分に課しているのだ。多少体調が悪くても効率的なルートを選ぶし、面倒でも有料の駐輪場を使うし、悔しくても職場では無知をよそおう。それは面倒で嫌になることも多々あるけれど、それでも損をしたくない気持ちのほうが圧倒的に強いからだ。
しかし、そうまでして遵守したルールが他人に破られたとき。まるで力強くマッチを擦ったかのような、原始的な怒りがわたしの中に燃え上がる。相手はただゆっくりと財布を鞄に入れたり、のんびり会話を楽しんだり、不慣れな業務だったりするだけなのに。わたしはそれを非効率的だと断じるほど偉い人間ではないはずなのに。それなのに、なぜか自分を蔑ろにされたかのような、幼い執着を嘲笑われたような、不快にも似た激しい怒りがわたしのどこかに燃えるのである。
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例えば、職場に迷惑をかけないことがルールの人と、家庭の平和を守ることがルールの人は、互いを狭量な人間だと排斥しあうしかないだろう。つまり、わたしが怒るということは、同じように他人の怒りを容認しなければならないということなのだ。わたしにルールがあるように相手にもルールがあり、相手の中に怒りがあるようにわたしの中にも怒りがある。他人の怒りを目の当たりにしたとき、どんなに相手の理屈がおかしいと思っても、個々のルールに優劣はないのだと肝に銘じるようにしている。
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こう書き綴ったものの、普段の自分の言動はどちらかと言うと無駄のほうが多い。わたしの方こそ人の怒りを招いてばかりかもしれないのだ。六十にして耳従うと言うが、それまでにはこの狭量な性格をなんとかしたいと思う。