数年ぶりに眼科へ行った。
視力が落ちて、コンタクトレンズが合わなくなってきたと感じたからだ。
しかし、いざ測定してもらうと、わたしはむしろ「過矯正」という状態にあるのだと告げられた。なんと視力が落ちているわけではなく、逆にコンタクトで過剰な調整をかけてしまっている状況なのだと言う。
例えば、「視力1.5」というのは、遠くのものを見る時に1.5見えるということであって、あくまで基準は"遠くまで見える"ことである。(遠見視力)
しかし、現代はスマートフォンなどの台頭により、遠くを見ている時間より近くを見ている時間のほうが圧倒的に長い。
そして、近くを見るためには、遠くを見るよりもずっと強い筋力を必要とする。遠見視力に合わせた矯正器具を使っていればいるほどそれによって目に強い負荷がかかり、眼精疲労や肩凝り、頭痛などを併発する。これが「過矯正」である。
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看護師さんからこの説明を聞いているさなか、わたしはずっと霧の中にいた。
自分の視力は両目合わせて0.03程度しかない。強度近視。コンタクトレンズ無しでは院内の無機質な風景も霧にしか見えないのだ。
家の中ならまだしも、屋外で長時間この視界でいた経験は殆どなかった。不安からか、スタッフの方の説明も何となく頭に入ってこない。早く視界を取り戻したかった。
こんな時、原始時代だったらわたしはあっさりと死んでいただろうなと思う。技術開発が遅れていれば障害とみなされていたかも知れない。たかが視力と思える現代の技術に思わず感謝する。わたしはこんな小さいシリコンの塊に生かされているのだ。そのことは自分が常に薄氷の上にあるのだということを思い出させた。
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帰り道、人間が社会性動物であることの有難みを感じながら歩いていた。例えわたしの視力が悪くても、畑を耕せなくても、日没のあとの地球のことを知らなくても。
この世界に生かしてもらっている。
調剤薬局の自動ドアを開けると、点眼された薬のせいか、やけに蛍光灯の光が眩しいように感じた。
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▽参考