声の綺麗な人を好きになるということは、沈黙に耐えられなくなるということだ。玲瓏の響きを操る喉仏を眺め、次の言葉を待つ瞬間にさえ価値が生まれる。一度宝石のまばゆさに目を奪われたのなら、知る前には戻れまい。我々はもうゼロが発明される前の世界を純粋に再現することは出来ない。それと同じく、その声の美しさに一度魅せられたのなら、その声を聞いていない瞬間は、その声を待つ瞬間になる。
率直に言えば、素敵な声を持つ人に恋をした。一つ先輩で、同じ大学の違う学部の、同じサークルの人だ。品の良い家庭の飼い猫のような、上品でどこか翳りのある人。勿論、年齢相応に下品で呆れた側面も持ち合わせている。
わたしは愚かな女なので、ひとつぶの真珠に惚れたのなら、その真珠が水底で眠っていた頃のことまで暴かずにはいられない。それは唾棄すべき下卑であることに違いない。なぜなら真珠はそこにあるままで美しく、出会った瞬間から美しい。それで十分だろう。出会った瞬間からの記憶で、何も足りないものはない。愛することは未来のための行為だと思うし、愛することに過去の理解など要らないのだ。カレンダーの、その人と出会った日にピンを刺す。その日付から左側を、どんなふうに生きてきたかなんてことは何も要らないと思いたい。過去がその人を育んだのは事実。だが、過去の全てを知りたいなんて思わない。「なんだか分からないけれど、素敵なあなたが生まれるまでの秘話があったのね」と言えたらどんなに素敵だろうか。
でもこの思想は片想いのいろはだ。お互い愛し合うのであれば、生い立ちや思考を形作るもの、過去への理解は必須になる。相互にコミュニケーションを取るのであれば。しかしわたしは、はなから片想いの気持ちで先輩を見ている。先輩を、宝石や花を愛するときの感情で見つめている。搾取的で不健全で気持ち悪いことこの上ないのは、そうだ。
わたし、恋というものは、ざっくりと「すてきなものに憧れること」だと思っている。性欲を伴うだとか伴わないだとか、そういうのはどうでもいい。すてきなものを前にした時の、胸の高鳴り、頬の火照り。それが恋だと思っている。恋とは興味の発露のかたちの一つでしかない。一方的な憧れ。架空の宝石箱に、面影をそっと仕舞い込むような。
だからわたしが厳重に秘匿し続けている限り、この恋は簡潔な片想いとしてわたしの中でだけ存在する。が、耐えられなくなった。それがこの始まりだ。
「先輩、なんて素敵な人」と書くだけでこの文字数。これからも恋の話をします。