※悲しい話😭が含まれます。自己嫌悪や心身の不調について書いています。

ニューロダイバーシティ・プライドのイベントを主催した二日後、私はメンタルクリニックで泣いていた。
「私が生まれてきたせいで、みんなが不幸になっている」
そう言って泣きじゃくっていた。
その後、原因もよくわからないまま嘔吐して仕事を早退した。
そして今日も、朝から内科に行った。レントゲンと血液検査を受けて、「胃腸が荒れていますね」と言われた。感染症ではないらしい。原因はよく分からないけれど、おそらくストレスだろう、と。
私は、自己嫌悪したり、人との間でうまくいかなくなったりするたびに、身体の具合が悪くなって寝込む。
吐き気がしたり、ご飯が食べられなくなったり、息が苦しくなったり、高熱が出たりする。
自分を責める言葉は、頭の中だけに留まってくれない。
私の身体は、それを真に受けてしまう。
今も腹が痛いので、布団で丸くなっている。
そしてそんな自分をまた責める。
これが、ニューロダイバーシティ・プライドのイベントを主催した人間の姿。
私はニューロダイバージェントとして綺麗な物語を提示することができない。
抑圧や劣等感を克服した者として、自信満々に無限マークを描くことはできない。
私は今でも、自分で自分を傷つける。
他人には向けたくない刃を、自分自身へ向けてしまう。
言っていることとやっていることが違う、と思う人がいるかもしれない。
けれど、私はむしろ、プライドとはそういうものだと思う。
迷いのない人は、わざわざプライドなんて掲げなくても生きていける。
自分を誇ることに何の困難もない人は、わざわざプライドを語る必要がない。
むしろ、自分で自分のプライドを壊してしまう人たちだからこそ、プライドが必要なのだと思う。
私たちは、ときに他人には向けたくない刃を、自分自身へ向けてしまう。
では、その刃はどこから来たのだろう。
なぜ私たちは、自分を傷つける言葉を覚えてしまったのだろう。
プライドとは、その問いを忘れないためにある。
私は、私ひとりではニューロダイバーシティ・プライドなんて掲げられない。
だから、公に開かれたパンフレットを仲間たちに呼びかけて書いた。(https://nurodiversitypride.wpcomstaging.com)
あのパンフレットに、「私」という主語はほとんど出てこない。
そこにあるのは、運動の歴史であり、先人たちの言葉であり、世界中の当事者たちが積み重ねてきた知恵だ。
私は、自分を誇りに思えるから、あれを書いたのではない。
私は全然強くない。一人では無限のマークを支えきれない。
プライドを持てるかどうかを、個人の精神力や努力の問題にしたくない。
「もっと自信を持てばいい」
「もっと自分を好きになればいい」
そんな話をしたいんじゃない。
プライドとは、自分を責める前に、その傷がどこから来たのかを問うことだ。
プライドとは、誇りを持てない者たちを置いていかないための言葉だ。
私は今も、お腹が痛くて、布団の中で丸くなっている。
自分の言葉を疑いながら、これを書いている。
それでも、プライドという言葉を手放したくない。
プライドを持てるかどうかを、自己責任にしないために。
プライドを持てるかどうかを自己責任にしないために、プライドという概念はあるのだと思う。