それほどつらくはない飲みの場をやり過ごして帰路に着く。新たな本を手に入れたくなったが、どう少なく見積もっても積み本と借りっぱなしの本が片手の指の数を超えてしまうので、ちゃんと今日は諦める。本はたいてい手に入れた瞬間から満足が始まってしまう。ひどいときには後で買う用のリストに追加した瞬間からそうなるので、本当に読みたいものはなるべく事前情報を入れずに不意打ちに近い形で出会い、なおかつ鮮度が高いうちにすべて読み切るのがいい。絶命したことに気づかせないように、なるべく手際よく素早く仕留めるのがコツだ。
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帰りの電車のなかで華やかな香りがして、なんだろうとおもったら苺のパックを提げた人が隣に立っていた。異国の夜中に果物を運ぶのは、さぞ気分がよいだろう。誰にも彼にも、少しはましな3月が訪れてくれたらいい。
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居住空間を人間らしくしつらえるのが本当に下手で、人に「古本市みたい」といわれる部屋に暮らしている。足の踏み場は全然あるけど、収納という概念のことはおそらく全然わかっていない。物体を認識したり動かしたりすることに人より大きめの労力がかかるため、何らかのレイアウトの変更について考えるだけでもその果てしなさに圧倒されてしまう。まあ、たとえ空間の使い方が下手でも住めることは住めるし寝食は可能なので、死にはしない、と自分に言い聞かせているが、本当は自分でも自分の過ごす空間の適当さに疲れてしまうことがあるので、なんとかできる余地があるならそうしたい、とも思う。
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あまり無力なことを話しすぎると無力さが癖になるので、そうはしない。仕事をしていると効力を発揮することのマッチョイズムに陶酔する嫌な感じの大人に出会うことがあるが、卑屈だったりひ弱な方のイズムだって同じぐらい中毒性がある。
しかし、何について書き綴っていても、そこには永遠に埋めきれないものがあるというのも確かだ。マッチョイズムや卑屈なイズムに心身を浸し切った人たちは、そんなことで寂しさが紛れているとでもいうのだろうか。それとも、それらは単なる目眩しで、手段ならなんでもよくて、ほんのわずかでも問題から気を逸らせるならそれでいいやという考えなんだろうか。
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どうやってもあまり有効なことが言えない時もある。今日の文章は実際、ほとんど読むに値しないものだと思うけど、下振れの時の自分も等しく弔ってやるために置いておく。本当に今日はろくなことが思いつかない日だ。