私的な依頼を受け撮影に赴いた。最近は写真に対して魂が入り切らず、何が"良い"出来なのかわからないまま手探りで撮るしかないのが非常にもどかしい。一応依頼元からは問題なくOKを貰えたのでそれなりのものは撮れていると判断しているが、本来なら結果からではなく確信をもった主観的な自覚をするべきだろう、と当然ながら恥じ入る気持ちでいる。モチーフや光景に対して熱烈な欲を発揮できると良い作品が撮れる気がするが、そんな情熱や神秘の原理に寄りかかっている限りはいつまで経っても結果に対する再現性を獲得することはできないだろう。ただ、今は写真だけでなく生きていること全体に対して欲や出力が薄まっていて、何をするのにも相当に元気がないのが実際だ。差し支えがない程度に手足を動かしているが意識のうち30%ぐらいは常に耐えの姿勢が混じっている。こうして緩やかに衰退しながら段々できないことの割合が増えていくのかもしれないと思うと絶望の濃度がにわかに高まってくる。ああ。
自分のための時間を差し出してまで心を許せない他者と関わることがいよいよ辛くなってきた。直近で偶然その機会が立て続けにあったというだけなんだけど、いまの私は特にそのことから受けるダメージが比較的大きい。人間、人間の発する表情や言葉やその他あらゆる信号を受け取ることに大いに疲弊する。だめだ。本当にそういうことが苦手になっていて、ここ数日は本を読むことからも阻害され始めてしまった。言葉の中に現れる人間や人間の意志からも疲弊を受け取ってしまう。動きながら器用に立て直せる方ではない。どこかで一度立ち止まって持ち直すための空白が必要なのかもしれないが、渦中にいるとき、その判断をするのは極めて難しいことも知っている。暗闇の中では落下しているのか上昇しているのか、区別がつかない。
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かばんに本をしまうのが下手で、ファスナーに巻き込んだ栞紐が次々と引きちぎれる。感情が具現化したみたいで見ていられなかった。
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炎天に悲しい胸が光るまで僕はあなたと広場に立てり /堂園昌彦
静かな短歌だ。<僕>と<あなた>が広場に立つ時間の全体が悲しみという箱におさめられている。人が運命的に決められたものの只中に立ち尽くすとき、そこに感じられるのは静寂だと思う。