暴力的に寒さが戻って雨が降り、私は頭をかかえて引きこもる。「おばあちゃんがくれたから」といって贈り物と一緒にみかんを手渡してくるのは、その行動自体が紛れもなくおばあちゃんなんよ。人からもらった果実で喉を潤している。
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『葬送のフリーレン』、作品のトーンのために少しずつ観ることをしていたがやっと最新話に追いついた。以前書いた呻き(https://fusetter.com/tw/iDmjsCkh#all)では触れなかったが、普通にバトルものとしての面白さも飛び抜けていて良い。タイトル回収その3でもあるからね。強い人が次々かつ魅力的に描かれるのが嫌いなオタクはいません。試験やトーナメント編は異能力漫画のボーナスステージ。
それと、先の感想に書いた通り「継承」というテーマや人に流れる時間の奥行きというものに真正面からぶつかっているから、サブキャラクターとして登場する老人や熟練者の描き方にも説得力と妙味がある。彼らをただ古いだけの人にとどまらせないところに非常なる愛を感じている。いいね。作品としてやりたいことがはっきりしていて、かつそれを明確にぶれさせないところが大好きだよ。
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twitterのことをtwitterと呼ぶのは現存するサービスではなく概念の方の話をしているから問題ない。twitterのアカウントについて諸々を戻した。とはいえ何かをつぶやくことを再開する見込みは立っていない。ただ、いずれ時季が巡ればそういうこともすると思う。
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なんだかんだといって私は共同体の方を向いた人間だと思う。それはそうでない人を間近に観測しているから確信をもっていえる。何をしていても自然と周囲や「みんな」が意識の一角を占めてしまう人と、そうでない人がいる。
こういうことに悩むことがあるのは前者のうちの幾らかなんだろうなと思う。生きていて「気を遣う」方に傾くことがあるかどうか。その中にさらに気が利かせられる人とそうでない人がいて、それは現実の感覚世界へのチューニングの上手下手で決まる。かんたんな4章限のマトリクスだ。共同体の方を向くかどうかと現実にチューニングが合わせられるかどうか。引用したpostの対極にいるのは、共同体のことは特段意に介さないもののチューニングは上手な「個人主義だけど気の利く人」だろう。
ちなみに、人の中には共同体を尊重するかどうかの意志や感情面を優先度高く感知する「内部向きかつ社交好きな人」がいる(女性コミュニティのリーダーが象徴としてわかりやすい)。そういう人は、ある人が共同体に向いているかどうかの軸をより重視するから、いくら気が利いても協調性のない人はそれだけで大いに嫌われるが、反対に気が利かないものの気を遣う人は下手なりに一定の好意をもって受け入れられたりする(それでも共同体内の心理的地位は最低より一つ上程度であり、便利な捌け口として気に入られているという面は否定できないが)。また、意識が共同体向きかどうかよりも実際に気が利くかどうかという実利面を重視する人の場合はこの扱いが逆で、ヘラヘラするだけで鈍臭い人より、愛想がなくてもやることをやれる人の方が好まれたりする。
私は大まかにいえば人格の形が「共同体向き」で「チューニングが下手」である。そういう特性をもつ人は引用したpostへのリアクション量が示す通り、twitterユニバースの中には一定の割合でありふれているし、実際そういう人にとって共感性の高い言説やメッセージを自分の中にも持っている。それはあまり否定しようがない。ただ、私にはその属性には収められない特性も多分に備わっていて、また自分の意識上の問題としても何か特定の属性に包摂されること自体を快く思わない部分がある。ただのあまのじゃくや気分の問題ともいえるし、そうではない理屈も多分に持ち合わせている。私は、「やさしくない」ソリッドな思考やメッセージに親和する存在でもある。それは種々の表現物にも折々込めている通りである。
あるポジションに長く留まるということは自分にとっての偏ったイメージを引き受けるということでもあると思う。それは何というか、「なにものでもない」始原細胞からスタートして分化をして可能性を捨てる行為を繰り返して成長をしていく以上当然でしかたがないというか、主体的に選択を重ねると何らかの色がついていく(=なにものかになっていく)ことは自明という話でもあるんだけど、その上で、自分のある側面が共同体からのイメージに固定され、リアクションやフィードバックが一面に固定されていくことを手放しで受け入れることは私には難しい。人は、結局は「評価」の方に向かって伸びていく。その場でより受け入れられる方に、より好意的に迎えられる方に行動や思考が変質していく。それは、人が真の意味で周囲に交わりながら、すなわち周囲の力で周囲に馴染む方に変えられながら生きていくということで、社会性生物の本質であり醍醐味だとも思うんだけど、私は、何より共同体に親和する意識を持つからこそ、その方向に自分が変えられてしまうことが嫌だなと思う。
置かれた場所で咲くということについては、その土壌の色を受けて自身が変質することを受け容れられるかどうかという観点で論じられるべきだろう。you are what you eatというが、何を摂り入れ、何を構成要素とするかは一定自分で決めることができる。