yonoharu
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会期終了間際の福田平八郎展に駆け込み、結果、あてられて複数の本を買い込んで帰ってきた。帰り道、現代のこの街並みや景色を見て、彼なら何をどんなふうに描くだろう、という視座が自ずとインストールされる程には良かった。

最近の小洒落た美術館は作品にまつわるグッズが充実しているようだが、それにしてもいつも主催側とは気が合わない。気に入った作品のポストカードがあるならそれで手を打つか、と思うものの、想像通り個人的なニーズは満たされないため諦めて図録を買う。適当に入った喫茶店でそのまま大部分を読み耽る。印刷だと細部が潰れて良さが薄れる作品もあれば、かえってイメージが収束して実物よりも「観やすい」印象に変わる作品もあるのが面白い。福田平八郎の、徹底的に写実を積み重ねた結果「装飾的」な画風に至る、その過程や変遷の隅々までが非常に見応えがある。日本画の技法は全くわからないが、絹本着色というのだろうか、絹地の上に色を置く作品における白色の用い方が良い。透き通ってそこだけほのかにひかりを放つように見えて、大変気に入った。

素描や下絵、写生帖からの展示も多く、筆跡から息遣いが感じられて良かった。安直に感化されて、持参した紙と鉛筆で線を練習する。自分の手から生み出されるものが快いものに変化する過程を再びなぞりたい。

ついで短歌関連も。ここ1~2年ぐらいはほとんど歌集を買っていなかった気がするから、平準化したらそんなに大きな出費ではない、と自分に言い聞かせながら2冊手に入れた。

1冊目、『起きられない朝のための短歌入門』。大型書店の短歌コーナーがポップなブームに染まり、一抹の居心地の悪さをおぼえる中、我妻俊樹・平岡直子 という個人的にかなり信頼できる著者の並びを見つけて安堵する。読者の想定(”最初の数ヶ月とか半年とかだけあふれるように歌ができて、その時期が終われば一生スランプというパターン”)も鋭くてリアル。あれ、自分の話をされてる……?と気づいたら最後ぐいぐい引き込まれて戻ってこれない。

文脈をうまいこと説明できないので簡単に引用するだけだけど、

我妻 この世の常識にかなう内容を「事実なんですね」と読みあうような期待が嫌なのと同じように、常識を大きく外れた内容を「そういう設定の虚構世界の話なんですね」と回収されるのもすごく嫌なんですよね。それってどっちも同じことじゃないかと思う。歌を言葉そのものの次元からあわてて"お話"に持っていこうとする感じかな。

ここに違和感を覚える姿勢が私はかなり好きだ。宗派の問題だと思うけど、歌を、事実か虚構かにかかわらず常識や「理解できる方」の意味に引き寄せて読む(そのことに疑いを持たない)というケースは一定存在する。

(続き)

歌の読みをそういう宙づり状態にもっと踏ん張らせるべきなんじゃないかなって思う。歌をつくる人も読む人も、みんなかんたんに他人と話が通じることを期待しすぎてるよ。

ネガティブケイパビリティのようだ。歌の居場所を、事実や「お話」、あるいは共感や発見といった意味に限定しない姿勢。歌会という、ある意味で多数決の力が支配しがちな場において、見過ごされがちな重要な観点だろう。

読んでいて、充実感でいっぱいになって手を止めてしまうタイプの良書だ。大事に読もうと思う。

2冊目。楠誓英の第三歌集『薄明穹』。前作『禽眼圖』では、死の陰を濃く焼き付けながらも冷静で抑制的な文語の文体が見逃せないと感じた。前作に続き装丁が良い。彩度の抑えられた色の使い方が印象的。

おそらくは玄関があつた地震(なゐ)ののち潮風を長くそこにとどめて /「坂道のはて」より

たおやかに放たれる結句の響きが美しい。文語、そして歌集の第一首目には特有の魔法がかかっている。

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