寒暖差につまづいて風邪をひいた。仕事は休めなくもないが休んでいる場合ではないとも言えるので、最低限の働きをしてあとはそれなりに体を休める。日頃から不摂生をしているつもりはないが、他者とのパーソナルな関わりに乏しく、肉体など自己コンディションに対する意識も希薄であるため、総合的なすこやかさからは縁遠いのかもしれない。
年齢を重ね、段々と周囲が所帯を形成して社会的な信頼を得るようになってくると、相対的に、自分という孤立した点が現実のどの辺りに位置しているのかが急速にわからなくなる。当然のことではあるが、ある人を説明し裏付ける要素は、社会や公的な制度あるいは関係や行動、結果、評価や評判など常に個人の外側に存在していて、声や考えなど内在する現象はこれといった助けにならないということを考える。世界の側から人を見るとき、その人が何者であるかは外的な要素によってしかうまく定義されない。その人が外に対して何を成したか、誰とどのように関わっているか。定められた座標軸上のどの位置にあるのか。ゆえに、適切に社会性のある人間であればそういう外的な拠り所を強く意識し、自分も社会や所属組織によって認められるための何かを獲得したい、表示できるようになりたい、という動機が正しくはたらくのだろう。そうなりたいという欲求に必ずしも自覚的でなかったとしても、そうではない状態、すなわち自分の相対的な位置関係がわからない状態、社会的な暗闇の中に立たされている状態を避けられることに安心する感覚は、誰にも所与のものとして備わっているように思う。
マイノリティたちのマイノリティ性も最近ではそういう社会的な証としての価値を帯びてきて、まだ特有の色味は気になるけれども身分証明や自己説明のツールとして機能し始めている。これまでの社会の枠組みでは判別不能=「正体不明」としか表されなかった人たちが、特有の名称や証を与えられたことで一定の見分けがつくようになり、さらには自分たち自身も互いに同じ色の旗を掲げているもの同士が見分けられるようになったことで、明らかな帰属の意識が芽生え、結束し、個々の声や力を一つに結集させられるようになった。そうなると、言葉が定義されることで概念から一部が切り出され(共通の特性以外の部分が捨象され)光が当たり実体を帯びるのと似た現象が起こる。自分というあやふやで複合的な現象のかたまりが、外部から輪郭を引かれてある一つの決まった形を持てること、同一の輪郭で定義される他大勢の個体と「群れ」を共にできること。そして、群れとして苦楽や興奮や表現をより大きな一体として同時に体験し、擬似的に自己という個体を脱することができること。
満点の笑顔で飛距離の長い破滅を見せつけられる気分はどうだ。ちなみに私は先に述べた通り心身や生活のコンディションに対する感覚が希薄なため、何より先に「自分が気づかないままこうなってたらどうしよう……」という別角度の不安が差し込まれた。ウシジマくんと同じ読後感である。まあ、オタクの不摂生あるいは診断名チキンレース、つまるところが閉鎖系における承認トロフィーの見せ合い行為をわざわざ目に入れて快いことは一つもないので、基本的にはその類の話題は意識の上で遠ざけているが、引用したpostの方に見逃せないものがあったので言及している。集団的な酩酊、陶酔、脱自の経験。
人が孤立して生きていくことは原理的に難しい。それは先に述べた通り、ただ個のままでいるという輪郭を認められていない状態=社会的暗闇への耐えられなさ(push要因)と、そこから抜け出してより大きなものの一部として帰属することへの安心や興奮(pull要因)によって表面的には説明ができる(裏表をそのまま言っているだけなので特に意味のある話ではないのだけど)。そしてそれと同時に人は、自分という存在を含む日常のリズムにおさまる何かを突き破ることで得られる非日常の超越感、つまり酩酊や興奮を希求している。それにはいくつかやり方があるが、祭りや性行為のように他者や集団と接続し、自他の境界が融け合う境地に興奮や承認を得ることが重要な経路であるということを踏まえると、人という生き物が何に対して強く惹かれるように"自己設計"を遂げてきたかが見えてくる気がする。
社会や共同体は、例えどんなに小さくローカルな規模であっても個への抑圧や侵害といった権力側の暴力的な性質を否定することが構造的に難しく(イエやムラなど)、その巨大な負の体制を拒絶する流れの上に、新たに個を尊重する時代がやってきた。しかし、古く大きな国を否定した先にあったのは荒野と孤立した個人の膨大なネットワークだった。既存の豊かで確かなサプライチェーンを捨てて繰り出した自由の世界で飢えるように承認や興奮を求めているのが今だとするのは、少々物語に引き寄せた受け取り方であるかもしれないが。
また私は、オタクの本質は「興奮する力」であるとし、興奮のキャパシティ(excitability)がオタクの火力であり、外的に燃料が尽きるか、火力=着火力・燃焼力が衰えた時が彼らの文化的な終焉だという立場をとっている。そういう意味では人が本来的に酩酊や陶酔(それも集団的な体験として)を求め、それらが欠ける場合は豊かな生に値しない、ゆえに自傷や自己破壊を通じてでもそれを追い求める、という説はそれなりに説得力をもって響いてくる。他者とのコミュニティ的なつながりを持たずにどちらかというと孤立的に生きている私が、なぜ日々を絶望しないで過ごせているのかといえば、個人の試みの範囲で大いに興奮を捕まえられ、かつインターネットを通じた集団的なグルーヴに参加できているから、である。それはオタク的な狭義のコンテンツという単位でも当てはまるが、もっといえば言語表現という裾野の広いものに片身を浸しているということが大きいのかもしれない。言葉で何かを表し、また受け取るということそれ自体に興奮や行動の動機を抱いている。そしてそれにより私はインターネットで生きている非常に大きな集団(書き手と読み手の市場)に同時性のある形で加わり、承認を受け、時に一体となって振る舞うこともできる。少なくとも私はそれらの体験で得られる刺激によって充足しているから、今のところは無事に過ごせている。いつかオタクとしての感受性や火力が尽きた時、あるいは表現の術やそのための体力、外部との接続すなわち集団への帰属の手段が失われてしまった時、私はいともたやすく発狂し、絶望するだろう。
私は私個人としても人間としても、個に対して社会の側が及ぼすものを重く捉えている。欠乏時には飢餓として精神を縛るその重力から、人は到底逃げられない。そして同時に、社会的な帰属や感情の交流さえあれば満たされる要素があまりにも多い。人はどうしたって社会の方を向いて自己設計を行なってきた。人の側の基本設計が変わらないまま置かれる前提が変わってしまったのなら、そこで「失われたままでは困るもの」をなんとか特定し、別の形で復帰させて埋め合わせることを考えなければならない、と思う。自分たちがこれまで何を食べて生きていて、これから何を食べないと壊れてしまうのかを。