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yonoharu
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うめき声をあげている。なんともならない。絵は、目標としたい成果物と必要な鍛錬のプロセスがあまりにもかけ離れている、と恨み言を放とうとして、言語表現が例外なだけかもしれないと思い直す。別にハイレベルな創作を志さなくても、日常的な表現の程度なら不自由なく操れる、ってよく考えたらすごいことだ。絵はなんというか、描きたいものを描く前に、まずできるようにならなければならないことがある、と思う(遠回りをせず直接乗り込もうとすると、己のあまりの出来なさに爆発しそうになる)。楽器も同じだけど、表現いかんに到達する前に最低限の音が最低限の品質で鳴らせるとか、まずは表現以前に必要な基本的な操作をマスターするという工程が挟まるのが事を難しくしている。むりやり言語に擬えるなら、異国語を一から習得しつつ物語を書こうとしている状態、なのだろうか。

まあ、言語表現の方もなんともならないんだけど。

『起きられない朝のための短歌入門』を半ばまで読みすすめ、ああ本当に必要で知りたかったことが書いてあるなあと思いながら、同時にやめてくれわからん(わかりたい)の気持ちが強くなりしばしば中断している。難儀だ。思考がまとまらないので自ずと文章の理解度も落ちている。

ただ、連作のタイトルの話は非常に面白い。私は読む時も作る過程でも、タイトルというものが一番好きかもしれない。きっと象徴というものが好きなんだろう。構成要素の要約や平均・中央値とも違う、内容とは明確に区別されるものだけど、作品内容という民がシンボルとして選び掲げるもの。総意。だから内容とタイトルの関係に想像の余地があるものが好きだ。なぜここの民たちは象徴にこの言葉を選び出したのか、そこに明確な設計意図があってもなくても(結果的に相互作用が起きているだけだとしても)、面白い反応が生まれていると嬉しくなる。

引き続きまとまりのない内容で、文章がうまく閉じられない。ので無理やり終わる。読んでくれてありがとう。

@mecks7
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