悪とは「道徳や法律にてらして悪いこと、好ましくないこと」を指す語だが、現実の「悪」という言葉は単なる否定の意味にとどまらない広がりを持つ。たとえば物語における敵役は障壁としてヒーローの前に立ちはだかるが、彼らの多くは正義陣に劣らない強さとキャラクター的個性を備える。単なる作劇の都合だといえばそれまでかもしれないが、原理的に考えてみても一定の筋が通る。すなわち、道義や法の後ろ盾を持たない「悪人」が自らのあり方を貫くためには、一定の強さと信念が欠かせないということだ。
そもそも悪人が悪人たる所以として、秩序の内に安住できない程の荒々しさや力を元より備えていることも考えられるが、一時的に道を逸れるだけでなく"外側"として生きていくには、つねづね降りかかる正義や他の無法者からの侵襲に打ち勝つ必要がある。それができない者は「悪」を降りるしかない。有り体に言えば、強くなければ悪でいることはできない。ここでいう強さとは他者を屈服させる力の大きさだけでなく、善や正義など異なる条理を退ける信念のたくましさも含む。彼らは"正しさ"を選ばない者として、矛盾を孕む現実を外部から批判する。その拠り所が大義であれ欲望であれ、秩序の外に生きる存在だからこそ、彼らは正義に引けを取らない個性を放つ。
ゆえに「悪」という語には、オルタナティブな批判性やカウンター性、アンチヒーロー然とした独自の美学というニュアンスを引くことができる。敵役とは正義に抗えるほどに強く、そして正義とは異なる魅力を一面に備えるものなのである。
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「悪友」という言葉には、「悪人」「悪漢」のような「法や正義に対立する大義としての悪」としての意味合いこそないが、どことなく反抗的で胸をくすぐられる、ロマンな響きがある。辞書によれば「ともに悪いことをしたり、悪い影響を受けたりする友人」、「(親しみを込めて反語的に)仲のよい友人や遊び友達をいう」とあるが(明鏡国語辞典第二版)、たしかに善良で無難な関わりというよりも、どこか共犯めいた感覚の友、という印象がある。差し障りのない消極的な関係ではなく、何らかの企みや意思を帯びた、能動的な関係としての友。
ここで生き延びると決めた背中だな二重のフードを整えながら /榊原紘「悪友」
歌集『悪友』の栞文で、永井祐が "「悪友」という言葉にかかった魔法を大切にしたもの"と評している。私は、言葉の概念や連作の姿を辿るうちに、この表題と評の言葉が大好きになった。強い二人称の意識で描かれる歌、その景にいる<きみ>と作中主体の姿。その曖昧でゆらぎのある関係が、「悪友」という題によってアトラクティブに縁取られ、彩色されている。
引用歌の上句「ここで生き延びると決めた背中だな」には、優しく心を寄せ合うのではなく一定の距離を置いた連帯の感覚がある。主体が「ここ」の中に含まれるかどうかはわからないが、もし含まれていなかったとしても、「そこ」と「ここ」とでそれぞれが生き延びる、互いに背中を預けて別々の人生をやっていく、というさっぱりした頼もしさが感じられる。まるでバディの感覚だ。また、フードのある服を二重に着ることも、<きみ>や主体の気取らないスタイルの表れだろう。小道具として差し込まれる景も抜かりなく解釈に沿っているが、一方で「生き延びる」というやや重ための話題を軽やかな歌として着地させることにも役立っている。
悪友の悪の部分として舌が西陽の及ぶ部屋でひかった
いたずらっぽく笑って、もしくは、またろくでもないことでも言っているのだろう。「悪」という語のもつ批判性……とまではいかなくても、単なる善や調和に収まらない、やんちゃな感じがたった一字で鋭く表現されている。舌というモチーフは「悪」のもつ反抗的な語義と馴染みがよく面白いが、ここでは単にフェティッシュな注目の対象として読んでも魅力的だ。見知った相手の見なれない部位。ちょっとした、けれども決定的な瞬間が主体の目に印象深く留まる。
下句「西陽の及ぶ部屋でひかった」の部分は視覚的、それも動きを伴う映像的なアクセントとして鮮やかに機能している。上句でキャラクター的な魅力を与えただけでなく、一瞬かつ部分を切り取るやり方にもまた繊細な驚きがある。それらの取り合わせによって本作は、表題を引き受ける歌として見事な強度を放っていると思う。後述するが、長大な連作の中で一際輝くものの一つとしてこの表題歌があることに、作者の高い技量を感じる。サビのメロディがちゃんと良い、というのは本当にすごいことだ。
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時に「友情」という言葉には、それ自体があまりに屈託がなく、眩しいものだという印象がある。それは絵の中にしかないもの、どこにもない理想のようで、「すばらしい友情」なんて言い方をすると、それはもう生身の人間にあてがうことができない高尚なものに思えてくる。そんな綺麗な形容を引き受けられる人がこの世のどこかにいるのだろうか。そもそも、「友」という概念も考えてみればまた曖昧だ。他人でなく血縁でもなく、恋愛や性愛によらない。利害や損得勘定からも定義上は自由であるだろう。おそらくそのような既存の関係を差し引いた後に残る補集合として、友という「好感と親しみと信頼のある交流関係」の輪郭が薄らと浮かび上がってくるのではないか。友に条件はない。それゆえ、親友から健やかな友情からたちまち霧散しそうな希薄な関係まで、幅広いグラデーションがそこには含まれている。
そんなぼやけた「友」という集合のうちに「悪友」という補助線が引かれることで、先述の通りイメージがたちまち引き締められる。消極的な範囲としての「友」ではなく、美しいが現実味を欠く「友情」でもなく、愛着と瑕疵と親しみのある間柄。血縁や目的によらないフラットな関係、それも厚いフレンドシップの表現としてこの語が用いられることに、私は強く納得をしている。
立ちながら靴を履くときやや泳ぐその手のいっときの岸になる
宇宙船みたいな水上バスがゆく なにを忘れてくれてもいいよ
しばしば創作物のオタクはそういう類の旨みのことを「関係性」と言って尊ぶけれど、そんな無色で包括的な言葉に全てを託してしまうのは、よく考えたら芸がなく、寂しいことなのかもしれない。名付けられ得ぬ関係、それを言葉による支配を免れる無名の概念といえば聞こえはいいが、同時にそれ以上踏み込むことを諦めた表現にもみえる。だから、関係性に対してこうして新たな捉え方の枠組みが投げかけられるのは、私は新鮮で価値の大きいことだと思っている。
引用した二首にも同種の名付けられなさが凝縮する。前者は造作ない瞬間を豊かに捉える。「いっときの岸になる」のは「泳ぐ手」に対応するだけでなく、引いてみれば<きみ>と主体の関係でもあるのだろう。行く人と帰ってくる場所。後者の歌の、進行する物体を受けて思う「なにを忘れてくれてもいい」という深い受容の姿勢もそうだが、連作全体を通して主体は<きみ>に「いいよ」や「しようよ」「したい」という切実な呼びかけを行っている。口語による気さくでフラットな風通しが感じられながら、その勾配は主体から<きみ>の方へ大きく傾いているようだ。ゆかしい、強い二人称の意識である。
短歌の読みでは、相手に心を傾けるひたむきさのことを恋慕として捉えることが多いが、作者はあえて性別を特定させない人称の使い方等から、感情の傾きだけを丁寧に抽出しようとしている。それはある意味、単純で清廉な「友情」とするには少々キズとなる傾き方かもしれないが、その微細なキズや歪みこそが二人の景に重要な陰翳を付与している、と私は受け取りたい。いずれにせよ、既存の固定された文脈や観念を簡単には引き受けないとする姿勢に、作者の技量と表現上の信念がよく表れている。
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最後に、作者の歌の詠み方について触れておきたい。表題の連作「悪友」では、ほとんどの歌が57577の定型に綺麗に収まっていることに気づく。破調も句またがりもなく、そういう歌の作りからも素直でひたむきな印象を受ける。しかし本記事で引用したような一部の歌、特に連作内でキーとなる言葉や呼びかけのある歌では対照的に、心地よいアクセントとして句またがりが用いられている。
また、上記に該当する歌の位置も、連作の展開に合わせて山を作るようにリズムよく配置されているのが興味深い。私は終盤、最終歌とその少し前にある歌たちの取り合わせが好きだ。おそらく、それらの対照や配置がかなり意識的にデザインされているのも、作者のもつ強かな美学の表れなのだろう。
"言葉に対する鋭敏な感覚とフェティッシュ、そこに生まれるポエジー"が本歌集の原動力である、とは、先と同様の永井祐による栞文の引用である。語や文脈のもつ力に対する感覚と信念が隅々まで行き渡らされたところに、綺麗なだけではとどまらない歌意の情景が真っ直ぐ放たれる。そのすがすがしさと感傷に、私は胸を掴まれてやまない。