yonoharu
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生きていると不思議なタイミングで短歌が読める時期が巡ってくる。橋爪志保の歌集『地上絵』に、今になって吸着されている。

私は、それが形式として意識的に選び取られたものだとしても、無垢さや純真さやかわいくて無力な若者としての像を押し出してくる歌が好きになれないのだけど、なんとなく表面の印象に留まらない読みができるようになって初めて、この歌集の仔細がちゃんと見えてきた気がする。以下、引用しつつ触れてみる。

気になった連作『とおざかる星』は歌集 第二部のはじめを飾る長めの連作で、偶然開いた先の一首めのすわりがよくて好きだなと思っていたら、第二回笹井宏之賞の永井祐賞の受賞作らしかった。気合いが入っているというか、丁寧に完成度高く詠まれていることがきちんと伝わってきてとても良い。

 僕たちの時代は来ない 置いたけど届かなかった脚立のように

定型には定型という魔法がかかっている、とは川野芽生の言葉だ。すべてのリズムがすっぽりと箱に収められた第一首は、買ったばかりの靴を取り出すときのような緊張感とすがすがしさを放っている。定型通りに言い切る形には余計な感情が混じらないからそこにはあまり人の気配がしない。新しいゴムと布のにおい。二句ですぱっと言い切り三句目から追いかけ始める倒置は、直喩に導かれる余韻を長く後ろに置いていく。とてもすわりが良く、傷のない歌だなと思う。「置いたけど届かなかった脚立」というシンプルな直喩は、「僕たちの時代は来ない」ことに単なる事実以上の感傷をもたせないためだろう。意味の淡白さとぶれなさ、あとは余韻を導く倒置の構成とのバランスが噛み合っているため、すわりが良いと感じる。機能面で綺麗に作られている歌だ。引っかかりや揺らぎを引き起こす歌ではない。歌意として見ても、「僕たちの時代が来ない」ことを陳腐な若い批判心に帰着させていないのは好きなところかもしれない。少なくとも一読した際には引っ掛かりをおぼえなかった。ニュートラルですがすがしく、そして機能美的な良さがある。

 靴べらがなくてかかとに親指を入れる痛みに似ている街よ

 髪の毛をのばす理由をたずねられかわりにたばこをていねいに消す

痛み、街、正しさや多数派からの逃避、といった同時代的で短歌然としたテーマが第一首目と同様に中心に織り込まれながらも、嫌な引っ掛かりを持たせていないところが良い。ここまでに引用した3首はいずれも連作の冒頭に近い部分から引いているのだけど、このあたりで歌人や連作の姿勢がわかり始めて、私は作者の短歌を少し信じてみようと思った。感情のツヤを消して事実や動作に没頭するシュールな感じの文体は、それこそ永井祐の短歌を思い起こさせる。痛みも「痛みに似ている街」も、たずねられたことに答えないことも、すべて一様に無彩色の細い線で描かれているために、モチーフのはらむ感情がうまく外へ逃されている。他の歌に見られる愛らしい眼差しも、描いている線がこんなに軽くすべやかだから、後にはむやみな感傷が残らない。

 雨がふるたびに昼間は暑くなる 最近身体を気に入っている

そういうドライな線引きを作者はかなり意識的に両立しているんじゃないかと思う。無垢で純真で愛らしい眼差しが、シュールな線によってちゃんと「無力」として描かれているのだ。無垢には詠み手の自意識が宿るが、無力さにはむしろ詩性の宿る余地が大きい。仮に無垢な詠みをすると「最近身体を気に入っている」というメタでシュールな認知をしてみせる「自分」……といった嫌らしさが出てしまうが、作者はそこには容易に流れない。常に無垢ではなく無力の方に少しだけ針を傾かせることで、人間味の少ない、からっとした質感に落とし込んでいる。文体の与えるかわいらしい第一印象に反してストイックに歌を制御している姿勢があり、面白いと思う。

また、もう一つ連作を貫くものとして、流れる時間のスケールが大きいことを挙げてみる。ここまでに引用した歌にも当てはまるが、表現に対して歌意がシンプルに絞られているため、31文字分の時間をかけて一つのことがたっぷりと伝えられている印象がある。「僕たちの時代が来ない」こと、街が「痛みに似ている」こと、「雨がふるたびに昼間は暑くなる」ことを実感として得る身体を「最近気に入っている」ということ。実景と心情を切り返して意味的に重ね合わせるなんて回りくどいことはしないで、ただ目の前に感じられるものを尺いっぱいに使って表現する。それは体や心をいっぱいに使って表現することでもあるから、先に述べた無垢さやかわいらしさの印象にもつながっているが、ここではむしろ作者の大らかで人間離れした意識を支えるものとして受け取ってみたい。

 恋愛を宿さずきみに触れたことを一生かけて思い出すだろう

一生おぼえておく、ではなく「一生かけて思い出す」。思い出すという行為について私の中では瞬間的に火花がはじけるようにして起こるものだと捉えているが、もしそうだとしたら、その行為が人の一生という時間をかけて成立するという感覚に、何か人間を超えた大きなものの意識を感じる。「思い出す」という行為が完了するのは対象のことを十分に思い出せた瞬間で、きっと作中主体の感覚では「思い出しつつある」状態にすら何十年という単位で時を費やしてしまう。それはまるで惑星が一つの大きな軌道を巡っていくほどのスケールの感覚だろう。

 おそろいのキーホルダーはいつまでも持っててほしい星とおざかる /橋爪志保 「とおざかる星」

連作は「僕たち」の餞別の歌とともに締めくくられる。やはり端正に無駄なく定型に収められた歌の最後には、連作題のしめす景がそっと示され重ね合わされる。巨大な力に引かれ合い、数百年の時を超えて再び交差する星の軌道のような二人が想起されるが、その演出にはあくまでも緻密に感情が逃された、シュールで乾いた文体がよく効いている。人から遠く離れた巨大な単位で語られる歌たちには、小さな感情はいらない。

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