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そこには誰もいなかったのだ

yonoharu
·
公開:2026/10/31

chipokke 第二回公演『憧憬』観に行ってきました。ピアニストの遠藤ふみさんが、音楽として出演されると知って。

(演劇って、上演期間が数日間と限られている上に、タイトルをみてもあらすじを読んでも体験としての内容の把握はほとんどできないから、信頼できる作り手がかかわっているというただそれだけの情報を頼りに観ることを決めているところが大きい。よい作品を見逃さないためには、自分にとって信頼のできる作り手を見極める力と、あとは自分が読み手として作品を受容する力を信じて、踏み込んでみるしかない。人間みたい)

場所は三鷹、駅近くのビルの5階の、ミニマルな劇場。演劇をやる会場がミニマルでないことなどあまりないのだが。ビルを上がると簡素な受付があり、がらんとした空間には客席のための椅子と、演者のためのセットが隔てなく置いてあるのみ。客席との境目が見えないつくり。壁に病室を模した白いレースのカーテン、リクライニング付ベッド、ベッドサイドの丸椅子。少し離れた壁にまたカーテン、談話スペースを模した机と椅子のセット。舞台は群馬の山間にある小さな病院。物語を構成するシーンは大半がその一つ、病室にいる母娘と、談話室にいる父息子が、舞台という同じ空間にいながら見えない壁に隔てられたところで、それぞれの関係をやる場面。「娘」と旧知の仲である看護師は、「母」「父」という二人の患者の担当として二つの場面、それぞれの間をせっせと往来する。それぞれの患者の先には、確実に終わりに向かって流れていく時間がある。その時間における彼らのかかわりが、焦れったくなるほどの速度で、描き出されていく。

始まってすぐこれは、ねばついた、いやらしい感情の立ち上げ方をする作品だと思った。娘から母、息子から父、看護師からそれぞれの患者。数十年ぶりに再開した旧知の友人同士。それぞれの関係がきちんと、ぎこちなく、気まずく、時にいらいらするような質感を伴って立ち上げられる。彼らはまったく思い通りにいかない。普通に服を着て過ごしているだけなのに、繊維が擦れて首まわりがちくちくする感じ。たとえば寝ながらそれが息苦しく痒くなって、ばああっと脱いでしまうと案の定、翌朝にはしっかり風邪をひいてしまう。何で?そんなのわかりきっていたのにどうして?ねえ。ちゃんとしてよ。子どもは老齢の親に苛立ちをぶつけてしまう。誰も今さら、ここでそんな関係は望んでいないのに。重さに引かれてずり落ちていく物体が、それだけであちこちにぶつかって壊れたり壊したりするのを、誰の手も止められない。彼らの不器用さとそれがもたらす微細な不快さが、温度の隠せない会話で、あるいは表情で仕草で、丁寧に、しかしどこかさっぱりとした軽やかさで描かれる。丁寧に立ち上げられるからこそ、その時間を積み重ねた先に必ず、遠くないところに関係の「終わり」があることが、やはりぐりぐりと脈を圧迫する。不快な形でぶつかり合う彼らに圧されながら、わたしは、そこに生じる他者への分厚い眼差しに、自分自身を重ねずにはいられなかった。良い作品は、自分が個人的にかかえる想いが、境界を越えて染み出してくる。目の前の芝居によって呼び起こされ、形をもったものたちが、やがて現実の視界のほうを覆い尽くしていく。舞台を観ていると同時に、私はもうまったく別の、自分のみたいものだけをそこに観てしまう。ひとたび読み手がそうなってしまえば、その作品は、作品としてすでに一つの成功へ到達しているといえる。

愛とは、相手の姿を、たえず眼差すことだ。

私にもそんなふうに他者を眼差し、その目が離せない、できることならいつまでも離したくない、と思う気持ちがある。強く、強くある。けれどもその眼差しは、ただ望むようにだけ成り立たせることはできない。時に重さや熱は望んだとおりには受け取られない。それどころか余計なものを生み、予想を超えて波及する。他者への影響や反応は、自分の意志ではコントロールしきれない。本当はただ見つめ、心を寄せたいと思っているだけだとしても。見えていないところがぶつかり、擦れ、痛み出す。声を荒げる。どうしていつも。

花火の、あがる音がする。そこからはみえない花火の音が。母と娘が、父と息子が、看護師が、あわてて病院の屋上にあつまってくる。息を切らして。みんなで揃って、とおくをみる。さがす。けれどやはりそれらは断続的に響く、くぐもった音でしかなくって、像そのものはどこにもみえない。おそらくは暗闇にある、山かなにかにはばまれているから。その明滅は。だけどみな、同じほうをみている。心を、同じほうに向けて、静かに寄せ合っている。

クライマックス近くのその景が美しく、わたしは、ぎゅっと胸をつかんだ。うなだれるように。自らのなかにある濁った空気を、沈黙の声で叫び、震わせるように。

*

アフタートークで、映画監督の越川道夫さんの話を伺った。以下は私の記憶にあるメモであり、私のなかの言葉と混ざり合って急速に再構成された断片である。

したがってこれは発言内容の正確な引用ではないし私のオリジナルでもない、狭間にある何かであることを、ことわっておきます。

先に死んでいった人たちは、僕たちのことを、赦してはくれない。僕たちはいつでも、彼らの生の終わりに間に合わない。間に合わなかったと思ってしまう。だから僕たちは、彼らに断罪をされつづけることになる。もっと早く、わたしのことを見つけてほしかった。せめてきみだけは、ここに間に合ってほしかった。といった言葉で。

愛することは、赦すこと。それなら僕たちは、死んでいった彼らに赦されることがない。それだから僕たちはいつも、誰のことも、本当には愛しきれなかったといえる。

映画も演劇も、そんなものはただの造花だ。ゾッとするような、単なる作りものであるそれを、しかし僕たちは、愛さずにはいられない。映画や演劇の中ではせめて綺麗な、きちんと「間に合った」別れを描こうとする。

僕たちは結局、そんな造花を、愛さずにはいられないから。そんなことをいつだって、せざるを得ないんだ。

@mecks7
労務と微熱 ▶︎lit.link/yonoharu