yonoharu
·

あんなことを言っていたけど、昨日の今日で無事に書き終えた。21ページにわたる旅。

私はThe University of Tokyoにとくに縁はなかったし、自分のいた環境でもそこまで良い学生ではなかったから、在学中になにか良い出会いや経験、あるいは特有の美しい思い出や交友やそれに比する何かを得たとは、いまだに/到底思うことはできないんだけど、それでも、この文章を深く深く刻むように書いて読みすすめていると、私もまたこのように不特定の大人から少なくない祝福を受けて育ったのかもしれない、という実感が立ち上がってくる。後進に想いを託し、言葉を授け、力強く背を押してくる透明な力の感触を知らず知らずのうちに受けとっており、そうして自分の内部を巡るなまなまとした血肉の中に一つ二つを加えて、すこやかな生気のうちに若さのみなぎる身体をたえず弾ませていたのかもしれない。

私はまだ、自分より若く拙く、騒がしく愚かな存在のことをうまく愛することができない。だから、かつて先達が私たちにしてくれたように賢明に力や眼差しを投げかけることも当然できない(きっと私は自分自身の <学生時代> あるいは <若い頃> という問題にまだ決着をつけられていないのだと思う。人は自分の抱える問題が未解決であるうちには同じ問題を客観的に取り扱うことができないものだ)。だけど、いつかそれも解決をして、卑しいわだかまりや執着を捨て去った暁には、若く拙い人たちに向かって、未来に向けた旗をさっぱりと振ってあげることができたらいい。そうなりたい。そうやって、さわやかな大人になることさえできれば、あとのことはだいたいなんだっていいよって、ちゃんと思えるようになる気がする。

20世紀末とは、当時の世の大人や若者にとってどういう時代だったんだろう。世間では平成という時代が空白化されている、ステレオタイプな昭和と最新の令和とがダイレクトに接続されている、という指摘を見かけたけれど。でもそれは、今の世相の問題というより、平成という時代が元々そなえる固有の特性なのかもしれない。子どもながらに、薄暗くて不気味で、すこしずつ傷ついた空気が横たわっていたことを覚えている。灰色、底冷え、暴力、冷笑、耽美、露悪、性、超常、破滅。冥王星蠍座。安易なペシミズム。

人類はまだ、19世紀という時代を十分には消化しきれていない、と蓮實重彦は言う。

そのことが、日本をも含めた世界のさまざまな場所で、いまなお無視しがたい複雑な混乱を惹き起こしているということは指摘しておきます。そうした混乱のほとんどは、ごく単純な二項対立をとりあえず想定し、それが対立概念として成立するか否かの検証を放棄し、その一方に優位を認めずにはおかない性急な姿勢がもたらすものです。そうした姿勢は、それが当然だというかのように、他方の終焉を宣言することで事態の決着をはかろうとするもので、西側の勝利による冷戦構造の終結といった粗雑な議論がそうであるように、現実の分析を回避する知性の怠慢を証言するのみであります。

『葬送のフリーレン』OSTが手元に届いた。本作の一部ではフィルムスコアリングという、先に作成された映像に合わせて曲を制作する、映画のような手法が採用されている。その点に関する鼎談での言及が面白かったので引用する。

Evan Call:フィルムスコアリングでは、(……) その曲が編集されない前提で作れるので、自分が本当にやりたい演出や音楽の聴かせ方を細かく自由に調整することができるんです。

池田:通常のアニメ作品では、「こういう感じの音楽をお願いします」というリストをメニューとしていただき、そのオーダーに合った楽曲を作っていきます。その曲を制作サイドに提出して、監督さんや音響監督さんがシーンに合った曲をその中から選んで当てはめていくんですね。なので、作曲家自身はどのシーンにどの曲がどんな長さで使われるのかは、想像の範囲での予測しかできないんです。これをメニュー式というんですが、フィルムスコアリングだと先ほどEvanが言ったように、作曲家がコントロールしたい部分をダイレクトに完成版に反映させることができるんですね。

作曲家によるコントロールが完成品の映像の隅々にまできちんと行き届く。介在者の意志やアサインの都合によって、作曲家の意図や意志が薄められない。「編集されない前提で作れる」ことの自由度の高さ。

映像と音楽とが切り離せない深さで密着し、結合している。きっと私はこれを繰り返し長く聴くことになるだろう。今からそうなるのが楽しみだ。

@mecks7
労務と微熱 tw: @mecks7