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yonoharu
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春、自分ではない何者かと存在を分かち合う気分だ。目覚めている自分と休眠している自分の重ね合わせ。自分の構成要素が少しずつ自分ではないことへの微かな徒労に覆われているうちに時が過ぎる。ただの一日をうまく過ごせない。何がどう悪いとは言えないまま、噛み合わせの悪い日々を暮らしている。

転職を機に新しい仕事を始めたが、そろそろ感覚やリズムが身に馴染んできた頃かもしれない。携わるプロジェクトはつつがなく進み、ほとんど同行者の技量にしかよらないと思うものの、いくらかは引き続いての期待をいただくに至っている。私には数値的(≒営業的)な意欲はほとんど見られないから、あまりそのこと自体に達成感を抱くことはできていないが、それはそれとして内在的な実感と同じぐらい外形的な手ごたえがモチベーションになる方ではあるので、プロセスがどうであれ、ひとまず、目に見える形で行為の結果が現れたことはありがたく受け取ろうと思う。

よくいわれるところの「行為の価値は受け取り手が決める」とは、職業人として必要な一つの心構えではあるだろうが、それを唯一の基準とすることは危うい。価値判断の基準を自らの外にしか置けない人は結果に振り回される。どれだけ手を尽くしたとしても、結果や評価という「他者」を自らの意志と技術で完全にコントロールするのは不可能だからだ。あらゆる他者とうまく付き合うためには、健全な意味での諦め、境界、ここから先は自分の手の及ばない領域なんだという適切な認識が欠かせない。その上で、反対に相手からも手の及ばない自分の内部の固有領域の方を取り上げ、「外のことはさておき、自分自身はどうだったか」ということを別途検討する必要がある。

何が言いたいかというと、外形的には良い結果が得られ、それ自体は有り難いことだけれども、自分個人の行った取り組みにはまだそれほどの価値やクオリティがあると思えないから、その内外のギャップを早く埋めていきたいということを考えている。これが転職前は取り組みと結果が逆の意味でつり合わなくて苦労していたので、奇妙なぐらい皮肉な状況だ。ある意味、「行為の価値は受け取り手が決める」の変奏として「仕事の価値は市場が」「事業利益は収益構造が」、がそれぞれ成り立つということなのだろう。私はどちらかというと内在を重んじる方なので、価値が外的・構造的に決まるという考え方にはやや抵抗があるが、それも一つの真実のあり方だ、と思うことにする。

うまく集中できないまま書き綴ってしまった。またそのうち、消すか描き直すかしようと思っていたが、文章の形にして、公開を決めた瞬間に小さな達成感があり、それだけのことに救われる心地がする。私はとても社会的な生き物だ、悲しいぐらいに。

@mecks7
労務と微熱 tw: @mecks7