いろいろあって梅田の真ん中でしばらく泣いたりした。生きているとまあいろんなことがある。近辺ではあまり売っていない酢豚用カットの豚肉が塩シチューにちょうど良いので、在宅勤務の日にだけ近くの肉屋で調達して仕事中に裏側で煮込んだりする。「いつもおおきにね」と常連として認識されたことが地味に嬉しく、帰り道を走りながら何度か噛みしめていた。死ぬ時と場所を選べるのなら乾燥機の内側で膝を抱えて迎えたいが、それは私の一番なつかしい場所が夜中の都市の地下のランドリー室だからだ。どうせ生まれ直すなら洗剤の乾いた匂いがする部屋がいい。スーパーマーケットにある見知らぬフルーツと癖の強いチーズ。外国の街で臆することなく生鮮食品を買い求めたい。知らないアパートの廊下や階段を自分が歩くことを想像するとそれだけで頭の中の電源が一斉に明滅して大人しくなる。他人の生活の内部にやや偏執じみた興奮の感覚を抱く。廃墟の愉しみはそこにあった営みの手ざわりがそのまま古びて保存されていることの感触にあるが、別に廃墟でなくても合法的に他人のお宅の内部に上がれる仕事があることを思うとフェティッシュで刺激的で、それはもうすごくすごくそそられる。そういうわけで旅をするなら人の生活圏ぎりぎりを本当に住まうようにして歩きたい、そういうささやかで熱烈な願望を満たす上でもこの女性という身体は所々に不便がなく社会にちゃんと馴染みがよくていいね。実際に恐れるべきことやリスクは多大であっても、そうはいっても私たちは生まれながらに社会に包摂されやすい方の性別である(それも圧倒的に)ということに変わりはないのだろう。そのことの価値を真に自覚できないでいるうちは下手なことを言うことはできないなと個人的には思う。自分の履いている下駄のことは得てしてわからないものだから。
どう見てもそんな場合じゃないのに人の往来の傍に立っている間に二、三度は道を訊かれて、そんなに私は社会にフレンドリーな外面をしているのかとおもしろくなった。包摂をされているね。