monarches

yonoharu
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短歌は散文ほど外見的で全体的な物性を代表しない。短歌は、詩性と意味と印象の三つが重なった中心にある。それは閃く印象であり、形ある端的な意味であり、それらと同時に詩性の王国でもある。詩という王として絶対的に理解を拒む崇高さを持ちながら、形ある意味を手に持って運ばせることもできる。人から人へ意味を受け渡す馴染みの顔もあれば、形のない印象としてただ一度だけ音として閃くこともする。意味と印象と詩性、それらをどの角度からも等しく掬い取ることができる点に詩形のもつ広やかな懐の秘密が隠されていると私は思う。

穂村弘の話は、短歌というものが私たちにすることを形を変えて読ませてもらっているようだ。「人の世界像は言葉でできている」。私たちは言葉を手段として従えているのではなく、私たちのほうが言葉でできた世界像に生きているという。水槽の中にいる魚が世界のことを「水」としてしか感じられないように、蝙蝠が世界を「反響」としてしか知覚しないように、私たちは生きている世界を「言葉」としてしか感じられないのだろう。

言葉の連なりや使われ方や意味合いが「原理として自然なものとそうでないもの」に分けられている。というのが、記事中の「世界像のマジョリティとマイノリティ」だと理解した。私たちは物理世界での五感のように言葉を用いて世界像を感知する。とすると、ものが足元から頭上に"落ちる"こと、水が広いところから狭いほうへ"流れ出す"こと、火に触れると"冷たい"ことを不思議で不自然だと感じるように、言葉がセオリー通りに用いられていない場面(計り知れない場面)に遭遇すると人は違和感を得てしまう。ぐるぐるではなく"ぐろぐろ回る"花火。今ふれた世界像は、いったいどんな原理が支配しているのだろう、と意識がそこに惹きつけられる。言葉という感覚器を介して今感じているそれとは何かの原理が決定的にちがっている世界を感じ取る瞬間を、穂村弘は「ひとつの詩が生まれてしまう」と表現している。詩性はそれを受け取った人を別の世界へ引き込んでしまう。言葉は一見話の通じる意味の顔をしているようで、その裏側、そこから少しだけずれた場所にたっぷりとした異世界を蓄えている。

そう思うと、穂村弘という人はその人自身が詩の原理のように見えることがある。(辻一朗とは穂村弘の本名だ)

 カブトムシのゼリーを食べた辻一朗くんがにこにこ近づいてくる /穂村弘

世界は言葉で満たされている。歌人は言葉に働きかけ印象を閃かせることで認知の有りようを揺さぶる。事物を構成する音のチューニングが一つずつずれてしまった現実を覗かせてくれようとする。意味でもあり詩性でもある言葉を通じて、社会的な価値基準、社会的な合意に一致しなかったほうの世界を見せてくれる。

 百円玉はこのうれしさを映せない銀色の月として呼ばれた /我妻俊樹

 ガムシロの器を小さく持ち上げてきみの体に心臓がある /谷川由里子

 みんな差し出された夢の蜜柑を受け取ってみんな愛する夢の終わりを /堂園昌彦

ここに、私が短歌やインターネットに不本意ながらも不思議な居心地を感じ、一方でどれだけ心満たされていても職場やパートナーとだけ接していると摩耗してしまうことの理由が、鮮やかに提示されている。そのことに、驚いたばかりかちょっとした感動をおぼえて、一日二日、意識のバックグラウンドでこの記事の印象について反芻し、思考をしていた。

私という人間にも、社会的な価値基準に則った世界像に生きる、いわば正気な方の自分と、そうではない自分がいる。

 "たとえば、新聞記者をやっていて、同時に詩人でもある人が記事を書くとき、「雨がしとしと降っていた」とか「ざあざあ降っていた」って書くと思います。" "でも、同じ人が雨の詩を書くときに、「しとしと」とか「ざあざあ」とか書くかというと、決して書きません。これが、一人の人が持つ言語の二重性というものです。"

一人の人間の中には二重の言語がある。マイノリティの言葉でできた詩の世界にも、社会合意された堅牢なマジョリティの世界にも等しく私は所属している。だけど、後者に身を浸して社会的な価値基準の枠内にのみ生きようとすると、自分を浸している詩性の成分がたちまち枯渇して、魂が確実に痩せていくのが感じられる。どれだけ後者の世界が満ち足りていて豊かで愉快であっても、そうではない方の自分が十分に見とめられないでいると、それは何か大事なものを無視されているような、とてつもなく寂しい感覚になる。

私は自分の魂の中にある狂気が透明の波にさらされることに深く傷つく場面がある。社会的なチューニング、社会的な合意を内面化した言動に押しつぶされることを拒む柔らかい狂気の置きどころを、絶えずどこかに求めているのだと思う。

@mecks7
労務と微熱 tw: @mecks7