yonoharu
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立て込んでいる。いつだって気分とフィーリングとちょっとの詩情で生きているに過ぎないので、やるべきことがあってもぜんぜん余裕ぶってしまうし、余裕ぶったあとはちゃんと辻褄合わせとして相応に苦しんでいる。めちゃくちゃ因果に報いが応じている。この世も人間も、概ね合理的に仕組みができているところは結構好きだな。

そんなふうに、基本的には認知が平面で瞬間的だから、物事を概念上だけで完璧に構造的に捉える、頭の中に楼閣を建ててその内部の間取りを歩いてまわって評論する、なんてことはかなり苦手な方だ。ただ職業柄、そういう1級概念建築士みたいな人はゴロゴロいて、先輩は軒並み趣味でも頭脳遊戯に強く(TCGやカード遊戯の世界級プレイヤーがいる)、彼らと真面目に話していると自分なんて脳がぷるぷるの赤ちゃんなのではないかと思うことがある。まあ基礎能力でいえば言語領域やアイディアの着想や展開の瞬発力ならその限りではなく、実際うぬぼれではなくいいところまで戦える部分もあると思うんだけど、いかんせん論理と数字には滅法弱いので、情的要素を排した論理な展開が始まると何も太刀打ちができない。し、そういう雰囲気に傷つくことがちょっとだけ増えてきた。誰にも他意も悪意もないと分かっていても、私みたいな軟弱ものはただ「情が含有されていない」という事実にすらうっすら傷ついてしまうところがある。「反論も批判も愛想のない対応もあなたへの<攻撃>ではない」、そんなことはとっくにわかっているが問題の核心はそこじゃない。表面が硬くざらついたものと柔らかいものの組み合わせなら、軽くふれ合うだけで一方に擦り傷がつく、私は常にそういう話をしているんだ。

都合で買って読んだ本に面白い内容があった。「論理的」と呼ばれる思考や表現方法には国や文化によって明確な差があるという内容のコラムで、同じ話題を以前に講演で聴いたことがある。曰く、フランス式では「正反合」の弁証法的にテーゼに対するアンチテーゼ・ジンテーゼを示し、賛成でも反対でもない第三・高次の結論を導くことが「論理的な」構成だという話で、その過程で米国式・日本式の論理についても言及があった。その、米国式・日本式の論理について。

出典:中嶋秀隆『PMプロジェクトマネジメント改訂7版』

米国式の論理は「ブロック積み上げ方式」であり、課題を明確にし、一つの課題を決着させてから次へ移る、課題の解決を積み上げて結論にたどり着く。これに対し、日本式の論理は「鳴門巻き方式」で、検討では一つの課題に止まらず全体を満遍なく舐めるように目を配りながら、全体をぬるっと考慮して結論に至る。

よくある国際商談の例として、米国人が商品スペックの要求をいえば、日本人は「スペックは納期に影響する」といい、米国人が納期の要求をいえば日本人は納期がサポートへもたらす影響をいい……と、日本人の思考では話題がごく自然に象限をまたいで他へ移っていくのだが、米国人はこれに対し「結論に至らないうちに論点が変わる」「筋が通らない」「散漫だ」と混乱をおぼえる。しかし、ここで日本式論理が行なっているのは、物事を部分ではなく全体をさらって総合的に検討するということであるから、米国式の論理思考には逆に「視野が狭い」「融通が効かない」という不満を覚えるらしい。この、論理的な異文化による思考とコミュニケーションの摩擦についての解説が面白い。

私は米国人と仕事をしたことはないため上記を実体験に則ってわかるとはいえないが、この日本式論理の、悪くいえば総花的、全方位に角が立たない、ステルス性能の高い、ぬるりとした守りの身のこなしは、めちゃくちゃ自分の身に覚えがある。私の思考や記述や仕事における対人ファイティングスタイルにいろんな意味でものすごく近く、そしてまた同じ点において極めて日本人的だなあと思うのだ。

私個人が何を思ってこのようなスタイルに落ち着いているかというと、何より先に落とし所が気になる、そして尖らせるより調和させたい、といった慎重で先を見通したがる性質が効いている。

何かを生み出す時、私が真っ先に気になるのが「うまく形をなせるか」で、そのためには「だいたいこれぐらいの着地になりそうだ」という落とし所についての見通しが要る。確からしい見通しを得るためには、序盤から局所にこだわりまくるよりも、全体のベースを満遍なく組み上げてまずは60%ぐらいの完成度にまで先に辿り着いてしまうのが一番いい。そうなると「不意打ちの大失敗」「最終日のやっぱりデスマーチ」の可能性をある程度排除できるようになるから、心配性の衛生的には非常に望ましいのだ(気が小さいから「どんでん返しの大失敗」がいつかどこかで飛び出してくるかもな状況にはちょっと耐えられない)。

また大失敗の可能性を除いた後も、部分最適にこだわるあまり全体の調和が崩れるということもなるべく陥りたくない。それは、作り上げる対象物の品質という意味でもそうだし、作業で協働するメンバーとのかかわり方という意味でもそうだ。誰かの意見やイズムが極端に濃く反映されて、そこに入れなかった誰かが明らかな割りを食うところとか、私はあまり見たくない。それでもし誰かがムッとして空気がピリついたりでもすると、早々と対人センサーを切って寝込みたくなるがそういうわけにもいかず、結果として心労が加速度的に増してくる。根が真面目で、しかも細かいことがしっかり気になる方なので、なるべくクオリティにも作業過程にも角が立ってほしくないのだ。誰かが損をしたり機嫌を損ねたりして予想外のトラブルに発展しないように、「予防」を隅々まで行き渡らせる必要がある。そうするために、あっちの意見を汲み、こっちの意向を聞き、を行ったり来たりして、なんとか全員に満遍なく小さな花を持たせられるように、と苦慮してしまう。

そういう物事の気にし方は、元来の性格でもあるし、これまでの経歴(社内調整に奔走してきた経験)によって培われたものでもある。社内政治とかいうと生臭くて嫌なものに聞こえるが、実際どこ行っても人と人が長時間絡み合って過ごすものである以上、人としての好き嫌いや心証の良し悪しを行動や意思決定から切り離すことは難しい。それに、理屈とは単なる刃物で、自分が振りかざす時は便利で頼もしいが、他人から突きつけられるのは誰でも嫌なものだ。物事を誰の目から見ても明らかに切り分けたい時には活躍するが、あんまり人に向けるものではない。だとすると結局、相手が「喜んで」何かをしたくなるように仕向ける、そうなってもらえるように人として感じよく振る舞っていく、というのが、だいたいの場面でなんとなく確からしい方法なんじゃないか、と考えるようになった。

以前何かの話で読んだことを総合すると、かつて日本の村落においては富や資源は限られたもので、限られた空間に暮らす限られた面々がそれを「うまく分かち合う」ことが重要な課題だった、というふうに理解している。物資も人も基本的に出入りのない固定的な社会では、富の格差も人同士の関係も固定して動かない。だったら何かの折に「差」がついてしまうことを極力避けようとする、ということは自然な話に思える。かつての日本企業もそうで、新卒で入ったらそれきり離脱も流入もしないとなると、常にいる同じ面々といかに無難につつがなくやっていくかということが重視されるのもまた自然なことだろう。

そして、動機がそんな卑しい気持ちとはいえ、誰かが損をしないように・どこかがバランスを崩さないようにと満遍なく全体を点検して回ることは、結果的に物事を全体物ごと捉え、要素同士の連関や相互作用のダイナミズムを包括して検討するという、それはそれで特有の技術と呼べる思考法につながっているんじゃないかと思う。もちろん、それぞれの観点を転々回々としながら、結局あちらを立てればこちらが立たず……と議論が堂々巡りで結局何も決められなくなる「非論理的」袋小路に陥ることは往々にしてあるのだが、それでも私は、複雑なものを複雑なまま検討するという手法でしか辿り着けない領域があると考える。

「全体は部分の総和に勝る」という言葉の通り、部分ごとの最適を積み上げても全体最適を実現できるとは限らない。なぜなら部分と部分は互いに独立しているわけではなく、全体を考えるためには新たに部分同士の影響やかかわり方を含めて考えないといけないからだ。詳細な分解と分析を繰り返して部分へ分け入ることは、過程の段階ではクリティカルで有用だが、最終的にはそれらの知見を集積して統合し、全体のダイナミズムを復元した上で決断を下さないといけない。経営とかマネジメントとか、そういう多角的で大規模で複数の判断軸が切り分けられない複雑な事象においては。そうした最終判断の段階では、きっと複雑なものを複雑なまま検討する思考が主役になるのだ。

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