yonoharu
·

多様性という言葉について、その社会的な用い方として大きく二つが想定できると思う。目的としての多様性と手段としての多様性だ。

 ・多様であることそのものが価値である(一次的):基本的人権、保障、尊重、万人のセーフティネット。倫理的な捉え方。

 ・多様であることが何らかの目的に対応する手段である(二次的):企業組織のパフォーマンス向上、ビジネス競争性の向上、企業倫理、人材確保・定着。経済的、合理的な捉え方。

法学の知識がないことを断った上であるが、前者は「排除されない権利」と言い換えることができる。この場合の中心意義は包括性と絶対性にあるだろう。誰もが枠組みや基準によって選別されることなく、相対的に軽視されることはあるべきではないという、掬い上げの概念だ。

一方後者は、企業の例でいえば「利益拡大とリスク回避」を実現するための、手段としての多様性である。「役に立つ」「必要に迫られた」等の形容をしてもいい。この場合には多様であること自体が意味を持つわけではないため、想定される「多様さ」の範囲もまた目的に沿って限定される。例えば、企業組織が<多様な人材>を求めるのは、短期的には「労働戦力の確保」「外的な評価基準の達成」といった目的のためである。そのため当然ながら、それら目的に寄与しない多様さは実施主体にとって意味をなさない。「働き手の多様性」は、一義には女性や高齢者、外国人など就業対象の母集団を拡大することが目的と思われる。だから、同じマイノリティでも「性的嗜好の多様さ」は母集団サイズに影響を及ぼさないため、この場合に十分な意味をなすとは考えにくい(性的嗜好が理由で働き手市場に参入できていないというプレイヤーは通常想定しにくい)。

より広く捉えるなら、多様な人材属性を揃えることで多様な目線を揃え、アイディアや事業運営上の死角・盲点を互いにカバーするというケースも想定できるが、この場合でも「多様さ」の選定対象となる特性は本来の目的を鑑みて優先すべきものが絞り込まれる。女性の管理職登用が重視されるのも、一つは、女性というステークホルダーが組織の内外に一定規模で存在するため、女性の視点で女性にとっての必要事項を検討することが相対的により重要であると認識されているからだろう。当然ながら女性管理職には「女性ならではの視点」だけが求められているわけではないが、なぜ女性であって障がい者ではないのか、性的少数者ではないのか……ということを愚直に紐解けば、やはり経済合理的な優先順位が理由であると考えられる。

繰り返しになるが、企業にとっては多様さが重要であるわけではなく、利益追求・事業運営という目的において多様さが有用であるに過ぎない。手段は目的に規定される。リソースに限りがあるという前提では目的に対して過剰な手段は選ばれにくいため、手段のサイズは目的に合わせて自ずと調整される。

そういうことを踏まえると、手段としての多様性(二次的な多様性)には、それが「何のための多様性か」という視点を切り離すことができない。そして目的は価値判断を反映するから、トリミングされた多様性はたいてい何らかの価値観や主義、政治性を帯びているといえる。どこまでが許容されて、逆に何が含まれないのか。それは企業活動に限らない。多様性という語の裏側に「<私たち>にとって都合の良い状態のための」という詞書が織り込まれることもあるだろう。

そもそも目的としての多様性というのは今日の日本で掲げられ得るのか。誰にも侵害されない普遍的な権利というものを私たちは概念としてうまく受容できているのかわからない。権利をリソースと同様に限りあるものと捉え、集団内での相対的な分配を前提に生きている気がしないでもない。だからというわけではないが、何者かによって「受容」の姿勢が打ち出されたときは、それがどのような目的から発せられているかという観点から暗に引かれている境界線を見定める必要がある。多様であること自体の価値を正しく認識できる人がそうそういるとは思えない以上、そこには何らかの意図や基準があり、受容できる多様性の範囲には限りがあると考えられるからだ。

抽象的なものを考えると、無限に相対化が進んでしまって判断の軸を失い、「見ようによってはどれも重要だよね」という何の意味合いも持たない虚無の結論が導き出されることがある。なぜそれが問題かというと、思考の結論というのは一定基準で物事を切り出す操作を行なった結果であって、判断基準を失うということは求められた「切り出す」操作を行なっていないということだからだ。それでは思考が成立していないことになる。クライテリアAの場合はA'が重要、Bの場合はB'が重要……等、定める基準によって無限に結果が分裂するものであっても、「Aの場合ならA'」という結論を一つ得ることと「結果はそれぞれ」と判断を放棄することは同質ではない。

多様性という概念を捉えることも同じで「属性や考え方をむやみに排除しないことは大事だけど、とはいえ全ての考え方が認められるかというと違うよね」というコメントは情報をあまり増やさない。誰がどんな場面で、何のために掲げる多様性であるのか(またはそれ自体が目的か)など、何らかのクライテリアで切り出してはじめて意味に足る結論が得られる。あらゆる条件を想定した総合的な結論は、部分的な結論を一つずつ洗い出して集約した後にしか得られない、と思う。

ちなみに「答えのない問い」という表現も、「いかなる条件においても解が存在しない」場合と「条件ごとに解が複数存在する」場合が混同されていることに納得がいかない。後者は「ただ一つの答えがない」だけで、答え自体がないわけではないだろう。前者を「答えようのない問い」とでも呼べばいいんだろうか。

@mecks7
労務と微熱 tw: @mecks7