yonoharu
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批評といえるほど確かなものを書いているつもりは本当にないのだけど、誰かの手によって生み出された何かに言葉を寄せることが好きで、生きている限りたくさんそうしていたいと思う。私の心に形状があるとすると、中心に向かってものを受け止められるだけの十分な深さの傾斜があって中身のない、器のようなものだと思う。器はものを容れたい。誰かの何かを受け止めて、落ちたりこぼれたりしないように包み込んでいる時に安心をする。私はものを容れていたい。

伊藤 紺 第3歌集『気がする朝』を読んでいる。歌集には読み始めはあっても読み終わりはないので、かかわりをなくしてしまわない限りは「読んでいる」という表現が時空間に無限に連なるイメージがある。人との関係みたいだ。それは私が交友を苦しいと思う理由のまさに主たる部分でもあるのだけど、関係している対象は基本的には減ることがなく、広がって積み重なっていく。明確に終わらせることをしない限り。肉体や精神がある一定の時期を境にしぼんでいくのに対し、経験やかかわりの事実が常に膨らんでいくというのは、見ようによっては何か希望のようなものなんだろうね。私にはどうしても、並行世界の感情のように見えるけれど。

  複雑な星に見惚れているうちに100年程度の人生の終わり /伊藤 紺

歌集の全体として、一人称の視点、それも喜びや恍惚というものの力にとっぷりと浸された歌が新鮮で目を惹かれた。どれも純度の高い喜びがうたわれている。星に見惚れるには生命は短い。たかだか100年なんて。星のもつ「複雑さ」というものがなんなのか、主体からは何も表現されていないところが、本当に人生を見惚れて過ごしたんだろうなという説得力になっている。

  星がすごく遠いことと腹の底から愛することはじゅうぶん同時に起こりうること

一首前の掲載歌。パワーを感じる。「すごく」「じゅうぶん」という程度表現がリズムにも意味にもグッと重たいアクセントを載せている。「腹の底から」も同様にいい。星の遠さと、腹の底からの愛とが、主体にとっては十分妥当性のある並列関係として捉えられている。「同時に起こりうる」とは正しく読めば時間的な並列関係のことだけど、そういう厳密な意味ではなくもっと大きく受け取らせるだけのパワーを感じた。一人称の感覚にリアルな力がみなぎっている。主体の世界では、星の遠さと愛することが互いに引き寄せられるほどの強い説得力が働いているのだと思う。

  頭、頭、頭と思いながら抱く男の頭は大きいから

あまりの存在感に、「頭」という語で世界が埋め尽くされる。猛烈な「わかる」に辿り着く。

  ひいおじいちゃんが大男と知って巡りはじめる大男の血

小さな認知が世界を劇的に変えてしまう。ああ、潤沢な一人称の感覚に触れられることが嬉しい。

そして、力強い一人称の視点に支えられながら、写真ほどの距離感で描かれる二人称の描き方がとても好きだなと思う。何度も読みかえすうちに、主体の向けるまっすぐで大らかなまなざし、衣類越しに体温がにじむような愛情に胸がきゅっと掴まれる。

  朝きみが靴紐を結び終えるまでいつも隣で座っている

  もうだめなあなたを抱けば老木に揺れる葉っぱのようなたしかさ 

歌全体に大きな受容の気配があるということなのかもしれない。簡単には飛んでいかない、霧消したりしない、喜びという感情によって、主体は世界の方にしっかりと根を張っている。

  なぜだろう / わたしを狂わせるものを / わたしの人生は受け入れている

どうしてか泣きたくなるような感覚の歌だ。言葉や論理の網目には掛かることのない、微細でねじくれた感覚。感情にはなにも触れられていないところがいい、受容というものを本質的に捉えている気がする。受容には、受け入れるという選択だけが先にあって、そこに能動的な感情や意思の入る余地はない。結果のみせる温かな印象とはちがって、ものすごくプリミティブで、コントロールする余地のない現象だと思う。気がつくと自分の器の中に対象が収まっている。それを受け入れる、みとめる、愛するというのは、受容という結果に後から引き合わされるものでしかない。それはきっと、私たちが運命に対してすることに似ている。

  南の島と同じ名前の店員さんが / 最後必ず目を見てくれる

「必ず」というのがいい。一度ではなく習慣的に、そしてこれからも同じ習慣の中に「店員さん」と自分の関係がある。この歌集には全編にわたって大きく受容されている感じ、包み込まれている感覚があるが、わたしはその象徴としてこの歌があると思った。必ず目を見てくれるという、それだけのたしかな関係。

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