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yonoharu
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模倣をする/される ということは非常に取り扱いが難しい問題である。人が何かを会得しようとするとき、まずはふるまいや様子などの外形を真似てそっくり写しとるところから学習が始まる。そこで真似の対象=手本に選ばれるのは、真似る人にとって目指すべきものとして置かれているということを意味するため、その選択にはある種の共感や尊敬の念が表れていると受け取ることができる。好ましさのあまり、自分もそのようになりたいと思うから真似をして、対象の一部を自分にも取り入れて身につけようとする。通常、自分が良いと思わないものを積極的に身につけようとはしない。それは学習者にとって健全なプロセスであり、真似の手本に選ばれるということは一定の評価がある裏付けと考えることができる。

ただ、同時にこの模倣という行為が他人を馬鹿にする手段でもあるという点が一見、事を難しくしている。人の発言や行為や癖をそっくりそのまま、あるいは誇張して真似ることは、相手にわかりやすく不快な気持ちを与える。モノマネ以外にも盗作やトレースなど、一定の過程を経て生み出した成果の結果を掠め取って似せることは、表現者や作り手に「軽んじられている」「蔑ろにされている」という思いを抱かせる。結果だけ取り出してみれば、何かを誰かと同じようにする・写しとるという行為は似通っていても、模倣の対象に与える印象は容易に正反対になり得る。尊敬か、軽蔑か。

しかし、上記の二つを分かつ境界線は一定のものとして引くことができる。例えば、表現をする人の中には自分の作品や作風の影響を受けた後進が育つことを多大な誇りとする人がいる。「誰かが自分の影響を受ける」ということは一意的な評価や賛辞の言葉よりも遙かな大きさの重みを持つ。それは、誰かに影響を受けてその技術や様式を会得するということが一朝一夕では成し遂げられない、時間や工数の面で大きな奥行きのある行為だからだろう。人が誰かに影響を与えるということは、オリジナルの与える印象が瞬間ではなく、作り方や生き方が明らかに変わるだけの十分な時間、十分な作用をもたらしたということの端的な証左である。

とすると、反対に悪意あるモノマネや盗作といわれるものは、オリジナルのもつ蓄積や背景や辿ってきた過程を無視して結果だけを安易につまみ上げるからこそ、対象への軽蔑を示すことになるといえる。他人から自分の癖や発言を言いたてられるのが不快なのは、自分が自分として生きてきた蓄積としての人格や意志を無視して、ただ目の前にある端的な外形のみに注目されるからではないだろうか。

思うに、人とは私たちの思う以上に時間的な存在であって、そのアイデンティティは自身が積み上げてきた時間や蓄積に依拠している。その人がその人であるということの本質はおそらく、他の誰によっても取り替えることができない「その人固有の蓄積時間の集積体」にある。自分が他でもない自分として感じ、考え、行動し、判断して導いてきた経験と学習と感情の集積。それが今ここにある自分自身である。だから、技術を会得した時間や作品を作り上げるプロセスを見ないで最終結果だけを模倣されること、人格を無視して端的な行為やふるまいだけを取り上げられることに、人は蔑ろにされる怒りを感じる。なぜならそれは自分という時間的・経験的存在の本体を何も見られていないということに等しいからだ。

上記の考えに則ると、長い時間をかけて人が人に影響を受けるという「善い模倣」の特徴を、量ではなく質的にも説明することができる。善い模倣によって引き継がれているのは、単なる外形やアウトプット様式ではなく、表現における哲学や姿勢、あるいはその根底に流れる個人や分野としての潮流やルーツであると考えられる。過去に道を作り上げ辿ってきた先達が見聞きし考えてきたこと、実際に行ったこと、彼らの善しとしたもの・しなかったもの。ある一つの結果のその背後にある青々と繁茂する太い樹体にこそ、後進者が本来まねて学ぶべき対象の全体像が存在している。人や分野が蓄えてきた膨大な時間と経験、それは歴史やコンテクストと言い換えることもできるが、その豊かな集積体に敬意を払い、自らも十分にそれに身を浸すことが、本来すべき「善い模倣」すなわち学習であるといえよう。

誰かに似るというのは対象に絡め取られてしまうことで、誰かに模倣されるというのは、自分がその対象を意図に関わらず絡め取ってしまうということだ。本当に誰かの模倣をするというのなら、その対象に溶け合い、対象の内側から同じ思考原理と目でそっくりそのまま世界を覗き返せるほどに一体化し理解することを試みないと、真に体得することはできない。そこまで深く試みることをしないのであれば、結局それは単なる「無断の借用」に過ぎない。借用も関係の一形態である。私は無断の借用にとどまる関係を積極的には許容しない。関係は双方向の概念で、自分の所有であると同時に相手の所有でもある。これは私の関係に対する本当に個人的な価値観とstatementだ。無断の借用はいらない。安易に私の色に絡み取られないでほしい。もし私個人の集積した経験と時間の文脈に立ち入ることを望むのであれば、妥協なく、徹底的にしてほしい。

そして、模倣によって絡み取られてしまうという現象のジレンマはそれ自体としてあまりに魅惑的だ。対象に深く踏み入ることで絡み取られ、侵食され、自分固有の領域を奪われそうになりながら抵抗してせめぎ合い、そしていつしか対象から染み出したものと融合し、彼と不可分に変状している我が生まれた結果、かかわる前には戻れなくなる。そのように徹底的に融け合うことをしなければ事物を真にわかることはできない。その危険でエロティックな原理が、知的営為という自己変容を伴う行いの計り知れない魅力を形成している。

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